海路の日和 16 この暑さのなか旅に出た

2010年8月24日

しかし、異常な暑さである。
現時点で、熱中症による死者が全国で300人を超えるという暑さだ。ぼんやりと考える。こんなだったっけ、昔の日本は。熱中症という病名さえ無かったような気がする。どこの誰が命名したのだろう。

kairo16_1sそんななか、休みをとって神戸・京都を回る旅に出てしまった。実家は関西にあるので、そこに顔を出して、そこから移動する形になる。この暑さでは暴挙といわれてもしかたない。
19歳まで関西エリアにいたので、特に神戸は好きな街だ。山と海に挟まれた地形なので、寒い時期の六甲颪を経験し、夏になると須磨や舞子の海岸で泳ぐということができた。そして、この狭隘な地形に人々が生活していて、電車線が三本平行して走るため、電車の車内混雑は東京に比べてはるかに緩いのである。

東京では、ヒルズとかツリーとか無理やり自然のイメージを刷り込みながら、極めて人工的で経済効率を意識した建物を増やし続ける。これも暑苦しい話だ。とりあえず向島のスカイツリーは勘弁してほしいな。私の好きな向島は、黒塀とやる気のない百花園が似合う町なのだ。
六本木は、もうしかたがない。40年ほど前に、一年半六本木にある印刷会社で長期バイトをしていたが、あの頃は特長のあるいい街だった。交差点の古本屋も消えた。六本木ヒルズやミッドタウンが、この街で面積を占めるようになってからは、完全に足が遠のいた。

今回の旅は、馴染んでいた神戸・三宮から始まった。北野町界隈を散策し、元町に至るというルートだ。散策の途中に、ちょうど四国から神戸に廻る旅行中だった当社の監査役T氏夫妻に偶然出会った。いやあ、どこで誰に会うかわからない。一瞬でもずれていれば、顔を合わすこともない。こちらは汗だくで首にタオルを巻いているような状態。

kairo16_2s翌日に実家を発って京都に向かう。京都も暑い。仁和寺から龍安寺を経て、大原・三千院というルートをとった。次の日に登った比叡山も含めて、はるか昔の記憶を辿る旅だ。比叡山は高校生の時に祖父と歩いて以来である。延暦寺の山門を入って階段を歩いていると、突然祖父との会話を思い出したりする。松江弁で静かに話す祖父の声が、セミの声に混ざって聞こえるような気がした。

以前の記憶と最も違うのは、外国人観光客の多さだ。こんなに外国の旅行客が多い街だったかな、と思う。面白かったのは、会話を聞いていると英語よりスペイン語や中国語、ドイツ語などが多かったこと。まさに国際都市の印象だ。そして、次に気づいたのは、暑さにドロドロになっているのは日本人(自分も含めて)が圧倒的に多かったということ。なぜか異国の人々は涼しげに見える。謎だ。

階段を下って根本中堂に行く。いい名前だ。なんか、ど真ん中の直球ストライクという感じ。物事、やはり根本だな、と思っていると、入り口近くにいたおばさんが携帯電話で、「今な、ねもと中堂におるんやけど」と言っている。ねもとじゃないよ、こんぽんだぜ。

延暦寺と言えば、僧兵が有名だ。はるか昔に、武装した僧侶がこのあたりをうろうろしていたわけだ。当時の武士集団との戦いは熾烈だったろうな。山全体が戦場だった。これまた、暑苦しい話だが、今の比叡山は多くの人出で平和な風景を保っている。

kairo16_3s思えば旅のスタートの北野町も異人館の街であり、最後の延暦寺も中国文化の流入したところだ。外国文化を日本はどう受け入れたか。長い歴史の中で波状的に外国文化を吸収してきた。稀有な時代を除いて。江戸時代である。考えてみれば、鎖国というのはすごいことをやったもんだと思う。

さて、旅も終わって、これから秋に向けて仕事が始まる。準備もいろいろとしなくてはならない。熱中症にならない程度に、何かに熱中するのだろう。熱中するものがないと、面白くないルーティンだけが続くから。

海路の日和 15 出版社の仕事

2010年8月4日

日差しが厳しく暑い中を、東京ビッグサイトに向かった。
当社も出展している教育ITソリューションをのぞきに行ったのである。この場合の当社は教育開発出版を指す。紙ベースからデジタル系への移行、そして出版という仕事の変容は、見定める必要がある。
もちろん、コンテンツという横文字で表現しても、紙ベースは強力なコンテンツであるし、一冊の本も価値のあるデータベースだ。だから、ツールの機能に驚きもするが、<なかみ>の問題が気になるのである。

もともと印刷出版という文化は、グーテンベルクの発明からスタートしたのは事実だが、それはマス(大衆)に向けてのツールということが、最大価値だった。一人に伝えるなら手紙一枚書けばよいし、弟子が口承してもよい。だから、彼が印刷を手掛けた際に、聖書を最初に作ったのは納得できる話だ。多くの人々に伝えたいという意味では。

それから500年以上の時を経て、どのように変化したか。最近のニュースで、アメリカのアマゾンの販売において、電子書籍が一般の書籍の部数を追い抜いたと報じられた。一般的なペーパーバックスは売れなくなってきている。電子書籍の時代を象徴するようなニュースだ。併せてネットでモノを購入することが定着してきたことも表している。

前回のブログで書いたが、出版社の仕事が大きく変わるかもしれない状況にある。i―Padの出現やキンドルの開発も、伝統的な出版の仕掛けを大きく揺さぶっている。私も試してみたが、指でタッチしてページはめくれるし、アプリでは英語や理科、社会という科目で興味を惹くものも見た。

特長はヴィジュアルと音声。ふーむ、なかなかのものだな、と感心する。もちろん、驚くのは私の理解度の低さもあって、知っている人にとっては普通の出来事だろう。でもなあ、続くのかと思う。品質も含めて。短いタームでの消費材なら問題ないだろう。でも、教材のように一年間を通して向き合う道具としては、紙の印刷物が優位にたつのではないか。

とりあえず、ハイブリッドな思考法で対応するしかないだろう。教科書のデジタル化がもう確実なものとして見えてもいる。出版社も柔軟な思考が必要なのである。軸をぶらさないことと柔軟さが併存しないと船の運航は難しくなる。

当社は、この場合はこのサイトのアドレスのKSコーポレイションになるが、価値の多様化に向けたコンテンツ開発が主業務だ。この仕事の難関は、現在認められている価値で勝負できないという部分が含まれることである。私は「未踏領域」と呼んでいる。ジャングルクルーズとも言う。

また、話が拡がるが、中学生のころに読んだ本で、確かニュートンだったと思うけど、彼はこういう言葉を残している。「人類が何かを発見したというが、それは海のように豊かな真理の一端を把握したに過ぎない。科学者はその浜辺で遊ぶ子どものようなものだ」だったかな。

その言葉を受け止めた時の印象。そうか、知らないことは海のようにいっぱいあるんだ。科学者は自分の追求したいことを思い切り仕事としてやれそうだな、よし、将来は科学者をめざそう、というような感想だった。幸せな時代だった。自分に科学者としての能力がないとわかるまでは。

先の未踏領域へのチャレンジという仕事と、ニュートンの言葉をオーバーラップして考えることができると思う。翻って考えると、認められる価値で勝負するということも、実は同じ要素が含まれる。なぜなら、初めて出版した時は、誰が認めてくれるかわからないもので勝負するからだ。そして、伝統の継承とは、原初の精神に立ち返ることだろう。

提案に提案を重ねて、ものは購買に結び付く。いい例がテレビで垂れ流し状態の車のコマーシャルだ。人的コストを考えれば、TVコマーシャルのほうが経済合理性に合っている。しかし、人と人が向き合った時に、このコマーシャルを見てください、という営業担当者はいないだろう。集中した対話と提案に提案を重ねて、それを仕事とするはずだ。

500年も前に印刷出版が人類に出現してからずっと出版社は流布することをミッションとして成り立ってきた。そういう仕事なのだ。紙媒体であってもツールがデジタル系に変容しても同じだ。

今、出版社は、その価値を再認識する時代にいるのだと思う。

海路の日和 14  朝顔市をのぞいてみた

2010年7月22日

一度いってみたいと思っていた入谷の朝顔市にいった。鬼子母神周辺で開催されている。
この地域は私にとって懐かしいエリアである。30数年前に入社した時の担当地域だからだ。歩いていると、首都高速の入谷の入り口が見える。この入り口を夜の11時頃に通過した思い出もある。台東から始まって墨田・江東・葛飾・江戸川と拡がって、いわゆる「下町」が担当エリアだったわけだ。その後に、純正の下町とは言えないと気付くのだが。下町の象徴は、神田・日本橋・両国あたりだと知ることになる。その地域から見ると、葛飾や江戸川は確かに遠い。

asagao1_s東京が近代化した後に「江戸情緒」は希薄になっていく。その中で、朝顔は江戸の町民が最も親しんでいた花の一つである。加賀の千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」という句は有名だ。その伝統を意識しているのが朝顔市ということになる。

予想以上の人出をにもまれて、道を歩いて行く。色とりどりの朝顔の鉢が並んでいる。半纏を着た売り子が、声をかける。花の種類には曜白とか団十郎とかいうものもあり、名前を見ているだけでも面白い。紫色の朝顔はまさに江戸紫だ。

江戸時代の江戸は、都市としては世界に冠たる人口を擁す町だった。町の経済を支えたのは、最初は関西からの流入組だったと言われている。大店の屋号にも江戸以外の地名が多く使われている。越後屋とか三河屋とか、紀伊国屋などである。佃島も関西からの佃煮職人が移り住んだ島だ。
今では佃周辺は都市開発が進んで、ウォーターフロントと呼ばれる高層マンションが蝟集する街となっている。花は変わらないが、人の生活は変わる。

ある店の主人に聞くと、江戸川で作った朝顔だと言う。奥さんと娘さんを連れてきて、いわゆる家族経営の花作りをしている。多くの店があり、膨大な朝顔の鉢を見て歩いていると、何を基準として選ぶかわからなくなった。これは、私たちの仕事のありかたに似ている。見渡してみると同じようなものが並んでいるのが、現実なのだ。朝顔の花はどの店も同じで、違うのは鉢の色くらいなものだ。値段も協定があるのか、一律である。じっくりと専門的に花の一つ一つを観る人は少ないだろう。

asagao2_s結局、50軒を超える店の中で、先ほど触れた家族の店から朝顔を二鉢買った。朝顔の育て方を真剣に説明してくれた娘さんの熱心さや、家族の雰囲気で選んだ。私くらいの年になると、売り手の人相や雰囲気で考える。強引なPRトークや、しつこい売り込みはこちらが疲れる。要するに、間合いの取り方のわからない人は苦手だ。言葉を換えれば節度か。もちろん、相手によって間合いは違う。剣道などで、相手から20メートルも離れたところで、声を挙げているのを間合いとは呼ばない。ただの自己アピールだ。

無粋なことを承知で述べるが、剣道や柔道の武道のみならず、ビジネスの世界も間合いが重要だ。集中のタイミングといってもよい。技をかける時機、打ち込みの瞬間などの集中である。優勢狙いは、本来の筋ではないと思う。

あの娘さんが母親の年になるくらいまで、朝顔市は続いていくのだろうか、とふと思った。あの街も、向島のスカイツリーに象徴されるように、激変する可能性は十分にある。
そこで伝統を守り続けることが難しい時期もくるかもしれない。

私たちの仕事も出版という形態が大きく変わろうとしているのである。それは、次回に。

海路の日和 13 英語を公用語にする会社とは

2010年7月12日

先日のニュースで、ユニクロが英語を公用語とするという情報が流れた。会社内での会議やレポートに英語を使うことを義務付けるという話だ。日産や楽天も同様に英語の公用化を図っている。

この件は大学時代からの友人が扱っていて、後追いの形だが、彼は自分の理路を語っているので、興味のある方は「内田樹の研究室」というブログのアーカイブにアクセスされたらいいと思う。

私の第一印象は、経営者は面倒くさいことを考える存在だな、というものである。経営者は権力を使いたいし、その権力は強制型のルールを決めることで発揮しやすい。ま、しかしね、なんでそんなに窮屈なところにたどり着くのかが、わからない。

企業としての国際競争力=英語を堪能に駆使できることが必要、と考えているとしたら、またわからなくなる。逆の角度から考えて、日本に来ている外国人で日本語に堪能な人はビジネスにアドバテージをとるのか。だとしたら、モンゴルやブルガリア出身の力士は強い。「日本なんて社会主義国だ」と呟いた朝青龍がよい例だ。日本語で敬語から皮肉まで語ることができる。

言葉について考えると、英語はビジネスにおいて一つのツールにはなると思う。しかし、それはツールの範囲を超えない。それが、ビジネスに関わるものの矜持だろう。もしツールの範囲を超えて、仕事に機能するなら、アドバンテージをとるのはクレバーな通訳者だろう。

相手に何を贈り、相手から何を受け取るのかという交流がビジネスの基本であり、そのためには相互の信頼関係が必要となる。
さて、言葉を流暢に扱えることが、信頼関係の構築に大きな影響があるか。私自身の経験で言うとそれは少し違う。言葉の要素より大きなものは、相手に伝えたいことに対する強い思いと、観察する力である。固まったような表情で話していた相手が、少し崩れて笑顔を浮かべる、そのタイミングの察知能力だ。もちろん、この察知能力も自分の集中力に支えられる。そうなれば、沈黙までがコミュニケーションの道具となる。

だから、ビジネスの弊害で大きいのはマンネリ化ということになる。上記のことがわかっていても、年数が経つと希薄になる。自らのアンテナが弱くなる。そして、マンネリ化した人間は、相手に何を贈ろうとするか、という集中力を持たないのである。

企業にとって最も優先するのは人材の「質」ということになると思う。もっと品質の高い仕事ができるのではないか、と考えることが組織の活性化につながる。量はその結果としてついてくるものだと考える。組織の中で、じっくりと構えればいいじゃないか、と思う。

グローバル経済とか勝ち組・負け組という上滑りな言葉が飛び交う時期があったし、今でも、上記のように英語を公用化することが国際競争力を強化すると考える経営者はいる。
もちろんマクロな視点で考えると、経済活動は国際的なフィールドで激しい競争が生まれるだろう。中国・インド・ロシアに加えて、韓国や台湾の台頭もあると思う。アメリカも多極化政策で経済回復を目指している。そこで、ビジネスに必要なのは「英語」という理屈なのだろう。なぜ、中国語やロシア語じゃないの、という突っ込みを入れたくなる。

おそらく、それは雇用問題に帰着する面もある。例えば中国人やアジア系の人材を雇用した場合も、コミュニケーションは英語で担保されるからだ。そして、人件費を考えると、半分以上のコストダウンが今なら可能だ。
もう一つの帰着点は、日産やソニーのように、英語を基本語とする経営者への権限譲渡がしやすい、という面だ。

以前、一度だけ行った中国(大連)で見た風景が、今でも思い出される。英語学校や日本語学校で学ぶ学生の眼の色が違っていた。そして、それは朝から夕方まで粘り強く外国語を吸収するという姿勢にも表れる。外国人と英語で話せた、うれしい!というようなレベルではなかった。彼らは、世界を知り、日本を知るために情熱を傾けていた。だから、日本語学校の学生に「池袋とか日暮里はどのような街ですか」と日本語で聞かれる。彼女の兄がそこで仕事をしているからである。彼女も日本で働きたい、という夢を持っている。

受験における「四当五落」という言葉や、「和魂洋才」という言葉は今では死語になってしまった。中国に限らず、このような言葉をキーワードにしている国々はあると思う。その言葉が、彼らの情熱を支えているのだ。その情熱が、彼らにハッピーエンドをもたらすと、保証はされていないとしても。

私たちの仕事の領域でも、来年から小学校での英語が本格稼働するのを注目しているが、さて、その方向性をどう見定めるか。多くの課題が山積している。教育現場での確固とした方針が練られているのか。準備が必要な時に準備していないものが、成果につながることは滅多にない。これは、ビジネスでは明確な事実だ。

企業が提唱するように、英語を学ぶことが国際化だという位相ではなく、その基盤において準備するものが学校現場にはあるように思う。

海路の日和 12  サッカーというゲーム

2010年6月28日

この原稿がいつ掲載されるかわからないが、南アフリカでのワールドカップが始まっている。昨夜見たスペインVSスイスの戦いには胸が熱くなった。スペインが何点とれるかな、と見始めたのだが、スペインは無得点でスイスが1点を挙げて勝利をものにした。
胸が熱くなったのは、スイスの守りである。スペインに20本以上のシュートを打たれ、それに比べるとスイスは数少ないシュートを放ち、そのうちの1本をものにした。

攻められる続けるスイスは死に物狂いで守った。それまで一度も勝てなかった相手に対しては圧倒的な不利だったはずだ。でも、勝利した。これが、サッカーなのだろう。
見ていて、紅白戦だな、と思った。赤のスペインと白のスイス。ゴールの前でスイスの一人ひとりの選手が、ゴールさせまいと必死になって、白い群れとなってまとまっていた。強い相手と戦う時の子どものサッカーのように、戦っていた。でも、おそらくそれしかやりようがなかったのではないか。

よくサッカーではシステムが話題になる。4-4-2とか。要するに選手の配置だが、監督の専権事項だ。しかし、スイスはそのようなシフトもわからないような戦い方をした。個々の必死さとそれを集結すると、システムが関係なくなるということをスイスは証明した。極めてわかりやすいミッションに集中した。そのミッションは「守ること」である。

中学生の頃からサッカーが好きだった。それは学校の環境である。中1の時に、理科の教師と喧嘩して、その公立学校をやめ、中2から縁があって昔「御影師範」と呼ばれていた学校に編入した。その師範学校が、サッカーを伝統としていたのである。その伝統を汲んで、年2回の全校サッカー対抗リーグがあった。クラスをABのチームに分けて全員が参加する。下手な生徒も全員である。

私はライトインナーかセンターハーフ(今はこんな呼称はない)で、そういうと何か格好のいいポジションだが、実態は、ここでは恥ずかしくて書けない。眼鏡をかけた中学生がヘディングをする時を想像していただければ、わかると思う。ヘディングの時は、よく笑われた。でも、楽しかった思い出であり、今でも最強のライトバックだったT君を思い出すことがある。今、どうしているのか。チームのなかで大仏ライトバックと言われた彼は。

大人になってサッカーを見るようになって、記憶に残った選手は多くいる。イングランドが好きだった頃の、ジョージ・ベスト(死んじゃったな)、ロイ・キーン、ガスコイン(ボロボロになったな)、など。オランダのクライフ、ドイツのマテウス、イタリアのバレージなど、今の選手まで数え上げたらきりがないのでやめるが、多くの選手が思い出される。

サッカーというゲームはボール一つあれば一人で練習できるので、お金もかからないスポーツである。先に挙げた有名な選手も、子どものときに一人でボールと遊んでいたと思う。そして、貧しさの中から這い上がった選手も多くいる。最近、本でも出たが、ジョージ・ベストもその一人だ。そして、5人目のビートルズと呼ばれるようなヒーローとなった。

今も世界中のどこかで、ボールと対話するように子どもが遊んでいるのだ、と思う。静かな海辺で、あるいは草原で、あるいは町の通りで。
そして、世の中に出て、サッカーにもチームワークがあり、気づきがあり、思いやりがあることを知る。組織というものも考える。

ジョージ・ベストの発言でガスコインの背番号の10について、あれは背番号か、僕は知能指数だと思ったよ、という逸話が残っているが、確かにガスコインの行跡は惨憺たるものだった。しかし、ベストの言葉にささやかな愛情が含まれているように思える。少年としてのガスコインに。
サッカーを戦う(これはサッカーだけに限定できないが)選手たちには、子どものように喜びを爆発する権利もあるし、うまくいかなかった時には、子どものようにうなだれる権利もある。ゴールを決めた時の選手の表情や行動を見るとわかる。だれも文句の言えないプレーヤーの権利だ。

システムでもなく、理論でもなく、サッカー協会でもなく、プレーヤーの権利は、自分たちが本気で戦ったということに支えられている。何のために戦う?名誉のためである。

私たちは、おそらくそれに感動するのだと思う。サッカーとはそういうものだと思う。

海路の日和 11  面白い学びについて

2010年6月22日

さて、今回は今までに述べてきたことの確認から。教育行政は使役としての意味はもつが、現場での教育への反映は難しいということ、だから現場とリンクするべきだ、という見方。そして、もっとも重要なのは教育を受ける側の状況を見ること、の二点であった。

学力低下や国際的な競争力のために、と文科省も経済団体もやっきになっているが、またしても、「主語」について触れると、主語は文科省を基軸とした行政であり、経済団体である。現場におちていない。教師の危機感や児童・生徒の認識はどうなのか。それ以前の問題に振り回されているのではないか。

もう今では余り読まれていないと思うが、志賀直哉の小説に「清兵衛と瓢箪」というものがある。少年が瓢箪に興味を持ってのめりこんでいく話だが、父親は役にも立たないといって瓢箪を割ってしまう。その後に瓢箪をめぐるエピソードがあり、最後のシーンでは、父親は成長した清兵衛が絵にのめりこんでいるのを見て苦々しく思っている。このような小説である。私は子どもの頃この小説を読んで、こんな父親にだけはなりたくないと思った。こんな父親になると、自分で自分を不自由にすると直感したからだ。

以前の稿で、鉄道についてマニアックな少年の話を書いた。これも、世の中に出て役に立たない部類の知識であろう。興味のない人にとっては、何の価値もない知識だ。しかし、この少年は知識を得るために面白く学ぶ。もし父親が清兵衛の父親のようであったら、やめろというに違いない。

しかし、大げさに言うと、人間の歴史に豊かなものがあるとすれば、多くは役に立たないものも含めて成り立っている。無理もあり、無駄もあり、ムラもある。三ムと呼び、企業経営者などが嫌うものだ。いいじゃないか、と思う。それではいけない、と眼を釣り上げる社会より、それを許容してもやっていける社会の方が住みやすいと思う。そして、三ムはいかんと声高に言う人に、三ムを兼ね備えた人が多い。人は自分で考える生き物なので、自分で判断していけばいいのだ。

また話は拡がるが、私は今ジャズサックスを2年間「学んで」いる。学生のころに通いつめたジャズ喫茶で聞いた音楽を自分でやってみたいと思ったからだ。60の手習いである。先生は63歳のアルトサックス奏者。私はテナーなので、いろいろと手間をかけている。面白い、しかし面白いだけではなく、苦労もする。苦労を超えるから面白いともいえる。これも教育の実態だ。

教育の現場において、苦労を超えて面白いという状況は何か。わかった、という気持ちの動きだろう、と思う。子どもで、原初から勉強が好きだ、といえる子は少ないだろう。では、どうするか。
まとめ的に言うと、教育現場での議論はそこから行うべきだと思う。学ぶことが面白いということを、大人はどのようにして伝えるか。次世代にむけてのエールも含めて、どのように伝えるか。

面白いだけの経験は記憶に残るだけだが、苦労や難関を超えた面白さは、その人の力になる、と思う。その力をつけるのが教育現場だ。モティベーションを上げるとか興味関心とか自己課題設定などという空疎な言葉で語っていてもしかたない。

さて、大人たち(教師や教育分野の官僚たち)はどの視点から子どもを見ているのか。「公共性」というキーワードは、子どもに視線を向けて出たメッセージなのか。
だめだろう、と思う。子どもは、大人をまねびながら考えるという前提に立つと、なめてはいけない、子どもは勘が働いているのだ。大人が本気で学ぶ気がないことを。だから、子どもの学力が落ちたと見るより、学ぼうとしなくなったことに本質的な問題がある。

実は、ここまでの教育問題のコラムは、大人(社会人)のオーヴァーラップも含んでいる。
学校で学ぶことは、偏差値で表現されたり、大学の評価であったり、数学が得意とか英語に強いとかいう、人生のサイズから見たら、ごく部分的なものである。圧倒的に、学ぶことの複雑さは社会に出てからの方が多い。そのためのトレーニング段階が学校というシステムだろう。

教育がシステム化される前の段階、中世のヨーロッパなどでは、子どもは「小さな大人」として規定され、働く能力が認められると7、8歳からでも労働し、飲酒もして大人としてみなされた。この状況から、子どもを守るために学校というシステムが構築された。親からの隔離システムでもある。

もうそろそろ、このシステムは更新の時期にきていると思う。その面からの現場での議論はあるのだろうか。分厚い教科書で学力を強化するとか、他の国との学力ランキングを意識するより、子どもと家庭、子どもと地域、子どもと教育機関という視点で、自発的な議論を深めることを優先すべきだと思う。

久しぶりで、長くなった。もうやめるが、最後に乱暴な意見を。文科相は教育現場の運営を各学校の自主運営に任せるべきだと以前から思っている。シラバスや学力目標など。どのような学校運営にしたいかの方針も必要。そして、上記の3つの視点を短冊型ではなく横断型で捉えること。

そうすれば、子どもたちの眼から見て、大人が自分たちの判断と責任を持っていると映るだろう。主語を一人称で語ること、仕事も教育もここからが起点になると思う。

海路の日和 10 ゆとり教育の意味を考える ③

2010年5月31日

のっけから余談になるが、以前経済紙に連載をしていた時に、相手の編集部から言葉の遣い方で連絡があった。私の原稿のなかで、床屋という表現が引っ掛かったのだ。文脈では「床屋政談」となっている。差別的表現とも思わずに使ったのだが、編集部ではいろいろと協議したらしい。微妙な問題だというのである。理髪店政談ならいいのか、という思いがあり、書き換えを断ったのだが、結果的にはその表記で記事になった。新聞は言葉遣いにナーバスなのだ、という印象だった。

なぜ、この話を振ったかというと、「役人」について考えるからだ。役人という表現はどうか。官僚と言えば問題がないのか。役人と官僚という言葉には、階層的な区分けが含まれるのか。
「役人」という言葉は、確かに余り印象がよくない。役人根性という言葉は、いい意味では遣われない。私たちのビジネスの世界でも、「役人の根性を見習って頑張ろう」と檄をとばす人間はいない。

私の個人的な定義は、役人とは「使役の人」である。使役動詞の使役だ。~をさせるという言葉。させる人なのである。従って、システムではさせられる人がいる。させる~させられるという関係では、させられる負荷はいつも現場に落とされる。現場に近いほど負荷がかかる。現場は目の前の問題であり、階層上位の官僚にとっては政策であり、抽象性の高い文言である。

昔話だが、1966年に「期待される人間像」という文書が中教審から文部大臣に提出された。余計なお世話という文書なのだが、それが、メディアを騒がせたことを覚えている。私は高校1年生だったが、このタイトルだけで、官僚の体質を見たように思った。「期待する」という表現なら、主語を明確にする必要があるからだ。答申を書いた人々なのか、文部省の官僚なのか、または国家なのか。発信する主体が不明確なまま、期待されるようになるべきだ、という押しつけである。硬い表現で言うなら、受動態を強要しているという形なのだ。

人間関係、これは仕事の関係も同様だが、お互いが理解すること、されることは大事だと思う。そのために対話する能力を人間はもっている。観察する眼や五感を駆使した感性をもっている。反発したり、共感したり、励ましあったりという精神の動態も必要な要素である。でも、人が生きていく上で、「期待される」ように生きることを選ぶのだろうか。窮屈な話だ。

当たり前のことだが、この40年以上前の方針に対する総括は見受けられない。あったとしても、抽象の域を出ないであろう。

ようやく辿り着いた。「ゆとり教育」という方針も使役の方針だったということ、そして「させられた人々」からの見解を吸い上げて総括がなされていないこと、という2点である。

忘れてはならないことは、当事者は「子どもたち」という事実。
学ぶということは、基本的には相互関係で成り立つ。教師と生徒の関係においても同様で、教師は教えるだけではなく生徒から教えられる。知の交換だと思う。

広く捉えた学びは、何も目の前にいる教師だけに拘束されるものではない。家庭であっても、地域の友人であっても、何かで知り合った人々からでも、あるいは書物からでも、人間は多くを学ぶ。
学ぶという言葉の語源がまねび~真似することであっても、結局は自分が主体的に獲得したものになるのだと思う。

前回のコラムで予告した「おもしろい学び」というテーマから、また逸脱した。回り道と寄り道は自分の得意芸ではあるが、ちょっとひどいかな。まあ、「期待される」ように生きてはいないので。

寄り道ついでに、連休中に行った白根山の山頂と浅間山の写真を添える。久しぶりに見た浅間の雄大さはよかった。白根の頂上付近にある火口湖「湯釜」も不思議な色合いで美しかった。煙を吐き続けるものと、危険をため込んで静かに水面を揺らすもの、という意匠である。

海路の日和 9 ゆとり教育の意味を考える ②

2010年5月14日

前回に引き続き、「ゆとり教育」について考えてみたい。
今回は長くなるな、という予感がある。それはなぜかと言うと、社会現象に拡がりを持つ案件だからである。
老子が残した言葉として、「大道廃れて仁義あり」というものがある。人間は、今欠けているものを声高に語るというように解釈してよいと思う。思い出してもらえれば、わかると思うが、この「ゆとり教育」が話題になった頃の日本の社会に、ゆとりを共有できるような気分の状態はあったのか、どうか。

社会現象としては、なかった。ベンチャー系というカテゴリーが話題になり、若い人材が投入されていた。都心のビルは、夜中でも明かりが消えることもない状態が見受けられた。それには海外とのネットワークも作用する。たかだか、世界で60番目位の小さな国土に、アメリカを中心としたグローバル経済の波が押し寄せて、呑み込んだ形となった。
即物的に言うなら、紙(紙幣)で紙を増やす作業だ。投機である。投機する人々にゆとりなど生まれる余地もない。そのような人々が増えていたのである。教育の様式は常に「大人の反映」として生み出される。

子どもたちは、大人の世界をそう見ていた。子どもにとって、ニュースとは「大人のやっていることを知らせるニュース」だからだ。子どもの眼から見たら、文科省の行政も大人のやっていることで、それ以上でもそれ以下でもないはずである。

本論に戻る。あの時点で、文科省は何を基準として「ゆとり」という言葉を使ったのか。そして、誰にとってのゆとりだったのか。
「ゆとりをもつ」という基準は、質量によって規定はされないというのは自明の理だ。教科書が厚くなるとゆとりがなくなり、難しいレベルの問題が多いとゆとりがなくなるというのなら、計量化して示す必要がある。誰ができるのだろう。誰もできない、なぜなら「ゆとり」は個体が所有する感覚だからだ。
ゆとり教育が提唱された頃に、これでは子どもの学力低下だとか、甚だしいものでは、愚民化政策だという論調のものもあった。この流れはPISAの学力調査を見て、これじゃいかんという流れに通じるものである。

もちろん、文科省がゆとりを提唱した際に、もう一つ挙げていたことがあって、それをセットとして掲げていた。そのもう一つのこととは、学力を伸ばせる子はどんどんと伸ばせばよい、という指針である。確か、minimum acquirementという言葉を使っていたと思う。最低基準をクリアすれば、自分の意思で学力を伸ばせばいいという理屈だった。無理筋だと、私は思った。
なぜなら、円周率を3.14から3に変えることによって、それが担保できる理由がないからである。学力を伸ばす子どもは、すでに自分自身で取り組んでいるからだ。そのような子は、円周率の小数点以下5桁を覚えよ、といっても、それで、「ゆとり」がなくなるとは言わない。学ぶ力というのは、そういうことだ。紙幅が少ないので端的に言うと、学ぶ力というのは結局面白いかどうかに尽きる。

余談になるが、以前ある国立小学校の授業を見る機会があった。
算数の授業だったが、授業の前に当番になる子どものスピーチがあった。小学5年生の男の子だったが、ブルートレインのことを話し出した。昨日、そのブルートレインが廃止になったというニュースについて熱く語ったのだ。歴史や役割、これから廃止されそうな傾向など。聞いていた児童たちは、ほう、という感じで真剣に聞いている。話している少年にとっては、自分が最も興味をもつことを語る機会を得て、興奮気味なのだ。
授業が終わって、担当教師に聞いた。「やはり、選ばれた子どもたちが集団でいると、あのような授業が可能なのでしょうか」。彼の答えは「もちろん、受験を経て入学したというのもありますが、1年生から習慣づけたというのも大きいでしょうね」。

面白いことには夢中になれる、これは子どもと大人を比べてみても一緒だ。単純な事実である。
スピーチを終えたその少年は、何年か後に思い出す機会もあるだろう。特急「あさかぜ」について熱く語ったことを。そして、これはどうかわからないが、見学していたおやじ(私のことである)に、「凄いね、よく知ってるなあ」と声をかけられたことを。

ここで、一区切りとしておく。まだ、このテーマは続くけど。
とりあえず、ここまでをまとめると、「ゆとり教育」の総括として、この文科省方針は現場での浸透は難しかったと言える。前稿で述べたように、誰のために「ゆとり」を掲げたかが、不明瞭だったからだ。総合学習の時間などの設定も同様である。
なによりも、学ぶ力や自己課題設定力などは、知的好奇心を持ち、面白いと思う気分が基盤にあるということ理解する必要があったと思う。

では、面白い学びとはどのような意味をもつのか、それは次回に。

海路の日和 8 「ゆとり教育」の意味を考える ①

2010年4月27日

先日、長い付き合いになるNPOの方から久しぶりのメールが届いた。最近プロデュースした本の紹介である。タイトルは「コンクリートから子どもたちへ」というものだ。
ゆとり教育の責任者のように言われている寺脇研氏と、文科省の副大臣である鈴木寛氏が語っている内容も含んでいる。

メディアでは、小学校教科書の量が40%も増加して、ゆとり教育からの大幅な方向転換だと取り上げられている。もちろん、こういった動きには賛否がつきまとうわけで、肯定派と否定派があり、軸をぶらし過ぎると非難する人もいる。
まあ、こういった論議には適正解はないと考えるたちなので、傍観しているわけだが、次のように考えることはできる。

どのように方針を現場に伝えるのか。誰にとっての「ゆとり」からの転換なのか。という問題措定だ。
以前、文科省の企画担当者と話したとき、彼は、方針を現場に落とすには300を超える権力を通過すると言った。なるほど、それは事実だろう。県単位・市単位での教育委員会をカウントすると、それぐらいの数にはなる。教育とは300を超える権力が存在して、シフトを組んでいるのだ。現場に到達する道のりは複雑に入り組んでいる。

しかし、全国津々浦々子どもたちの見ている風景や環境は、彼らの現場での問題である。霞が関の風景など見たこともない子どもたちは多くいる。子どもたちは、厚くなった教科書を机の上に置いているにすぎない。そして、教科書を厚くしたり薄くしたりする責任者は、常にSOME ONEである。それが、官僚の仕組みだから。そして、数値化することを目的にする。それが、官僚の特性だからである。数値化したデータは次に何をするかの手段でしかない。何をするかの目的を達成するには、どのような方法があるのか、という方法論が立たないのなら、抽象的な方針案(紙)で終わる。

私は「仕事」のことを言っている。私の考える方法は簡単である。おそらく乱暴だと言われるけど。方法とは、文科相の役人が霞が関を飛び出すことである。47都道府県に分散定住して、直接教育委員会と連携し現場と繋がればいい。データ収集や審議はネットを活用すれば、できる。3~4年の定住でも意味は大きいと思う。そこで、官僚たちは気づくのではないか。全国の地域の状況を棚上げしての方針は浮遊するだけだ、ということに。紙がいやになるほど山積しているビルから脱出すればいい。一等地のハコモノが空くことになる。経費節減だ。

これが、政治権力を機能させて、官僚制度にメスを入れるためにドラスティックな手法だと思う。
乱暴なところにたどり着いたようなので、ここらで一度幕を引いておく。
よく言うことだが、いかに堅固にシステムを構築しても、システムは仕事をしない。するのは、太古の昔から人間である。しかし、システムを変えること、与えることによって、人は自らの物差しを変える。

次回は誰にとっての「ゆとり」か、ということについて書くつもりだが、まず「ゆとり」という言葉は、教科書の量や質、また学習時間から導かれるものかという問題から入っていく予定。
これは違う、と私は思っている。「ゆとり」は気分の状態だから。この論議がないのが不思議。

ということで、次に続く。

海路の日和 7 桜の季節

2010年4月14日

桜の季節とは、フレッシュな人たちが輝く季節だ。
ピカピカの一年生という決まり文句もあり、当社のグループにも新入社員がそれぞれの部署への配属を待つ。

sakura1_s私もこの時期になるとカメラを抱えて桜を追うようになった。やってみたいことの一つに、カメラを持って、東京を起点とした桜前線を追う旅である。まあ、一か月近い旅になるだろう。
桜の時期には、花曇りという言葉があるし、花に嵐のたとえもある。見られるうちに見ようということで、千鳥ヶ淵の桜を見に行った。神保町を歩いたのちに九段にたどり着くルートだ。神保町で本を探して歩いていくうちに、偶然編集部のOくんに出会った。国語課の課長である。
いやいや、偶然だな、ということで立ち話して別れたが、その後、また立ち寄った喫茶店で出くわした。その喫茶店で話したのは、まあいろいろだが、作文コンテンツの話にも拡がった。

sakura2_sその後、神保町の街並みを抜けて九段下に到る。そこからボート乗り場までが、桜を撮る毎年のコースになっている。三分咲き位の状態だった。でも、こちらの勘としては来週の休日は曇り空だ。
桜を撮影するにはタイミングを逃してはいけない。いろいろな物事がそうだが。
写真はショットという言葉が表わすように、射撃にも似ている。また、受容という面もある。被写体が感性に訴えるなら、それは被写体のおかげである。幸運といってもよい。

桜を評する際に、よく使われる漢詩がある。
年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず、という漢詩の一部。詩のすべてをここに書き写すことはしないが、いい詩だと思う。日本の桜が百年間このまま咲き続ける保証はないが、サッと咲いてしばらくしたら散ってしまうという様態はずっと続いていくだろう。

さて、さきほどのフレッシュな新入社員に話は戻る。
彼らは、これからの10年から20年、どのような風景を見ていくのだろうか。人同じからず、だ。
人は桜の下で、年に一度の花見をするが、日常は毎日花見酒で過ごせるわけもない。厳しい現実に直面することもあり、自分の思い通りにいかないこともある。それが、普通の環境だからだ。
だから、自分にとっての普通の水準を上げていくしか、余裕は生まれないのだと思う。
余裕を持つにはどうするか、をこれからの経験で得ていってほしいと願うのである。

ということで、今回はのんびりとしたコラムとなった。もちろん、新人に向けてのエールも含めて。
次回は、余裕つながりということで、文科省の言う「ゆとり教育」について考えてみる。