海路の日和 50 キャリア教育について考えた

2012年1月31日

はやいもので、もう一月も終わろうとしている。年明けからの地震や、最近の地震速報を見ると、まだまだ不安定な状況は変わっていない。

年が明けてから、大学のキャリアセンターを回ることが増えた。さて、キャリアセンターとは?また、キャリア教育という定義で、現場では何が行われているのか。以前の教育開発出版での仕事との大きな違いをあげると、ケーエスコーポレイションの仕事は次のようなフィールドである。小学校低学年と大学・専門学校という教育機関のボトムとトップにフォーカスして対象に置くこと。これは、グループの構造からみて分かりやすい図柄だ。

まず、中・高・大の入試というフラッグがない。そして、教材の必須性がない。科目の概念がない。ないものづくしだ。だから、教材やシステムは様々な形態をとる。しかし、私たちの提示する商品は限定的だ。さて、どうする。というようなことを考えながら、大学のキャリアセンターを訪問する。

ここで、話を昔に戻す。自分にとってのキャリア教育。もちろん、私の学生時代にキャリア教育という言葉はなかった。私が体験したのは、就職課や学事課に提示されている求人票を見て応募するということだった。文学部で、それもフランス文学科なんてわけのわからないものは、企業の指定から外れるものが多かった。法学部や経済学部は、いろいろな企業からの求人情報があった。

あの当時に沿って考えると、キャリアセンターとは就職課の位置づけだろう。あの頃の私たちは、自分で情報を得て、自分で応募するしかなかったが、今は大学で教育プログラムを組むようになったと言うことだ。そして、私はSPIの存在を知り、併せてリメディアル教育や、エントリーシートの書き方、面接のスキルなどの領域を知ることになった。時代は変わったとしかいいようがない。

ある大学で面白い話を聞いた。大学受験予備校からの情報でもある。大学受験に熱心な学生ほど、自分のキャリアパス~どういう業界の仕事を、どういう職種でやっていきたい、という動機が明確だということだ。だから、資格の取得にも熱心だ、と。

しかし、キャリアセンターでは、社会への入り口までが仕事で、そのあとの長い時間、彼らの人生の7割くらいは、仕事によってキャリアを得ることになる。そこまでは、大学は面倒をみる筋合いではない。
そこで、入り口までの準備をサポートする。今では、多くの大学にキャリアサポートセンターが付設されているが、これも時代を表す現象だろう。

以前、書いた記憶があるが、私の学生時代のアルバイトは多岐にわたっていた。そして、日払いのバイト(主に肉体労働)と少しレンジの長いバイトを組み合わせて仕事をする。これは、今考えれば私にとってのキャリア教育と言えるかもしれない。20種類余のアルバイトをしたが、これが今のインターンシップと見なすことも可能だ。実際にある印刷会社から、うちに就職しないか、という誘いもあった。しかし、このアルバイトの経験を書き出したら、ブログ5回分くらいになるので、ここで止める。

就職した後に経験が役立ったのは、長期バイトだった市場調査の仕事と印刷会社の校正の仕事だろう。ビル清掃の会社や翻訳会社も長めに経験したが、その二つとも、学生たちで起業を行った。特に、翻訳会社は今でも付き合いのある友人たちで立ち上げた。これも、あの時代の話。

そして、何よりも印象に残るのは、現場の人たちの仕事に対するスタンスだった。活字を拾う人たち、地下鉄工事で驚くような腕を持った職人たち、分析資料をあっという間に作る人、プロというのはこういうものだ、と思った。そして、そのような人は自分の腕を自慢もしない。彼らにとって普通のことだからだ。余り腕のない人に限って、自慢をし、アルバイト学生をうまく使おうとする。そのような経験をした。

会社に入って考えた。プロと学生バイトを区分するのは、何か。おそらくミッション意識だろう。使命感を堅持すること。学生はただの通行人で、仕事と経済を結合させるだけの存在だ。使命感の主語、誰の命なのかは余り関係ない。自分の命になって初めて仕事が始まるので、上司の命であっても自分のやり方で仕事の到達点を目指す。

また、その人たちが教えてくれたのは、弛緩と集中の切り替えだった。へらへらしているかと思うと、急に眼の色が変わる。私が学生の頃に、そういったプロに出会えたのは幸運だったと思う。

私たちが大学でのキャリア教育に提案するコンテンツは、大きく分けると、「ことばの力」と「社会を見ていく眼」である。この二つは、仕事についてからも大きなウェイトを持つ必要なものだと思う。これも一朝一夕で身に着くものではない。以前書いた、子どもたちはいつから学ぶのか、というテーマにもつながる。
そして、おそらく、大学でのキャリア教育で必要な要素は、どんな仕事でも面白さを見つけろ、ということであり、仕事に対して謙虚に構えろ、そして、考えろ、ということだと思う。シンプルだ。

ということで、学ぶキャリアは子どもの頃から始まるという結論にたどり着いた。上記の「仕事」という言葉を「学び」に置き換えてもらうと分かりやすいだろう。

海路の日和 49 子役の時間

2012年1月16日

遅まきながら、謹賀新年。年が明けました。
正月休みは、また映画のDVDを5本借りて、それを見て過ごし、近くの下北沢の神社に初詣をした。恒例行事である。妻と二人で、閑散とした町を歩く。いつもの休日の下北沢とは雰囲気が違う。
3日から4日にかけては、修善寺を旅した。もう、5回くらい修善寺には行っているし、昨年の秋にも、特約店旅行にも参加して訪れたところだ。古い旅館に泊って、温泉に浸かる。

家にいてテレビをつけると、年末用の撮りだめの番組が多く、その辺りはパスしてドキュメント系に眼が行く。例えば、新日鉄釜石と同志社大のラグビー決勝を、松尾と平尾をゲストに呼んでやっている。過去の映像を見ると、あの頃の興奮を思い出して面白い。私が最も興奮したのは、社会人リーグの決勝でサンヨーと神戸製鋼が戦った試合だ。最後の最後に、右を走るウィリアムスのトライが勝負を決めた。あの時のサンヨーの宮地監督の表情。勝利を得た後の、神戸製鋼の平尾の表情。今でも甦る気がする。1991年のことだ。私は、父の仕事の関係もあり、鉄の関係の社会人チームが好きだった。「鉄の男」、カッコいいじゃないか。ドロドロで汗臭い感じがするが。今のように、おしゃれでスマートな仕事がもてはやされる時代ではないが。まあ、仕事におしゃれもスマートもないのだが。

で、話は本題にいく。年末にテレビで、これも過去の物だが、BS放送で「北の国から」をやっていた。連続で見ることができた。30年ほど前のテレビドラマだ。私が30歳を過ぎた頃にやっていたものだが、見落としもあり、あるいは記憶が薄れているのか、新鮮なものとして見ることができた。

この年になってみて思うのだが、これは、富良野の自然の美しさを描きながらも、実際は悲惨なドラマだ。東京から父親の故郷に引っ越した子ども、純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)は、東京に比較して圧倒的な不便さと自然の厳しさを体験する。そして父親の黒板五郎(田中邦衛)は妻に去られて失意の底にいる。人々の生活も貧困との戦いがあり、ある老人は、金のために苦楽を共にした馬を売り、「今頃は、肉になってる」と涙を流して呟き、酔っ払って橋から落ちて水死する。

自然のもつ厳しさや人間関係も含めて、実は苛酷な状況を描くドラマなのだ。貧しさゆえに夜逃げする家族もある。自然の生み出す美しい映像が、見ているものを、ほっとさせるが、ドラマとしたら悲惨なものを多く含んでいる。だから、喜びあえたり、笑いあえたりする場面が生きてくるのだと思う。

父親が、水を引く作業をしたり、電気がないために風力発電を組み立てたり、挙句の果てに仲間の力を借りて家まで建てる。彼は、生活のために、全てを一からやろうとしている。冷静にみると、これは「意地」だろう。東京の生活でもたらされた悲しみを意地になって克服しようとしている図式だ。

印象深いシーンがあって、しばらくして落ち着いた生活の頃に、息子の純は父親に言う。「水を引いたり、風車で電気を作ってたりしたお父さんは凄かったけど、今はなんで、そんなにだらしないの?」というようなことを言う。父親は怒って言い返す。「父さんだって、毎日働きづめで疲れているんだぞ」と。父親は工場に勤めて疲れているということを言いたいのだ。しかし、その後に父親は息子に「あの時は、胸にグサっときた」と呟く。

逆に父親が息子を責める場面もある。お前は卑怯者だ、と。このような親子関係を描くドラマは、今あるのだろうか。これは、親子が共に成長していく過程を描いていると思う。ラグビーのルールのように、親は子どもに向けてボールを後ろに投げる。
そして、このドラマシリーズでは、長いレンジで子どもたちの成長と苦悩が描かれる。この二人の子役は大人になるまでの成長を演じ続けることになる。

今の子役たちの活躍を見ていて、この二人の子役と比較してしまう。何か違うなあ、と思う。今の子どもたちは、表情も豊かに、器用に役柄を演じ、コマーシャルにも出て、笑顔を振りまく。歌って見せる、踊って見せる。周りの大人もニコニコ顔だが、彼らは子どもと動物に焦点を合わせると、視聴率が跳ね上げることを知っている。

この子どもたちの時間はどこにつながるのだろうか。余計な心配といわれるだろうが、友だちと遊ぶ時間や、普通の大人たちとの交流の時間はあるのだろうか。自分が見えなくなりはしないか。
もちろん、彼らは仕事で業界の大人と接し、いろいろなルールも学ぶ。挨拶などの対応も含めて、成長はしていくだろう。しかし、「北の国から」のように、彼らの成長過程を追い続けるドラマは、今のテレビには求められないだろう。なんにしても、継続する志を保つことは難しい。

純と蛍が滔々としゃべるシーンは少なく、純は心の中を呟きで時々表現する。蛍も寡黙な少女だ。それよりも体を動かす演技が目立つ。父の作業を手伝い、長い道を歩き、太陽の光を浴びながら走る。走るシーンは多く撮影される。蛍の走り方は記憶に残るほどだ。電車に乗っている母親を追いかけるときの走り方。そして、親や周囲の人たちとのコミュニケーションから様々なものを学んでいく。感じることで学び、ことばによって学び、自然に向き合うことで学んでいく。この二人には、子役である前に、自分たちの経験を楽しんでいる子ども、という印象がある。

その走っている先に、自分たちの成長があり、予測のつかない人生が待ち構えている。彼らの実際の人生もそうだ。そして、父親とその仲間たちは、自然に年老いていく。五郎の親友は、老年になってチイ散歩を始めることになる。

ということで、今年最初のブログはテレビドラマの感想コラムのようなものになった。
では、今年も、よろしく。

海路の日和 48 土竜から竜へと舞い上がる

2011年12月27日

もう今年も暮れようとしている。今年の最後のブログとなる。
しかし、もう48回目か。月に2本のペースなので、24か月が過ぎた訳だ。大体一つにつき2000字余りなので、400字詰め原稿用紙にすると250枚前後の量になる。

今年の締めのタイトル。土竜はモグラのことだ。そして、来年は辰年。しかし、なぜモグラを土竜と書くのか。イメージとして竜の姿とは似ても似つかぬ容姿のモグラだ。
なぜ、モグラをイメージしたかと言うと、この一ヶ月近くの通勤の環境である。2005年に㈱CAMPとして動き始めた会社だが、当初は日本橋にあった。私は、渋谷から地下鉄に乗っていって三越前で降りる。それから大きな通りを歩いて事務所に辿り着くという通勤ルートだった。

今回、上北沢から東新宿に通勤エリアが変わり、一番感じたのは地下鉄の駅に向かうルートの長さだった。地下5階のレベルまで下って副都心線の渋谷駅に着く。もちろん、東新宿では、地下5階から地上まで登っていくことになる。地上までに長い距離を進んでいく。そう、まるでモグラのように。地下の長い通路。老人や体の不自由な人たちは大変だろうな、と思う。まして、停電でもしたら。

話は変わるが、大阪市の市長に当選した人が都庁を訪れて、「いやあ、やっぱり都庁から見下ろすと、東京は大都会です。それに比べて、大阪なんかはほんとに田舎です。これから発展して、日本にとって東と西のエンジンになるように頑張ります」というようなコメントを残した。
私は、テレビのニュースでその映像を見たが、思わず、頑張らなくていいから、と呟いた。

都会だろうが田舎だろうが、そこで生活する人にとっては「わが町」であり、愛着心を持つのは、その町の風景であったり、そこで生活する人々であったりする。当たり前の話だ。ビルが林立し、地下をとことん掘り下げるような街でないとダメだと人は考えるのだろうか。

上記の市長の言葉が表わしているのは、経済至上主義の考え方である。さっきの言葉を翻訳してみようか。「いやあ、御社の最上階から見るとすごい風景ですね。やはり資本の強大な御社の発展から見たら、うちの会社なんか田舎大名みたいなもんですわ。これから御社を目指して、リストラなんかしてでも、大きい会社になって肩を並べるようになりたい、と思いますよって、よろしゅうお願いします」ということ。ほら、経済重視の意訳をしても違和感はないでしょ。そこに媚態がまぶされているとしても。

しかし、地下に何層もの交通網を巡らせて、日本で一番高い塔を建造することが、素晴らしいことかどうか。オリンピックを誘致し、経済効果を算定することが、東京にとって希望と成りうるのか。疑問符が私の頭に浮かぶ。

さて、土竜にもどろうか。通勤の際に地下鉄からモグラを連想したわけだが、今の仕事もトンネルを掘り進むような仕事だな、という印象だ。掘ってルートを探っていくと何かに突き当たる。そんな仕事のような気がする。整備された交通網とは違う。

最近も学童保育という領域に鼻を突っ込んだ。今までの仕事で、保育所を見た経験はないが、やがては現場を見ることになる。おそらく、文科省と厚労省の大きな短冊が政治レベルでの橋渡しを行うには難関が横たわっている。でも、幼保一体のアイデアや、学童を預かるという機能は、公的及び私的な機関の領域において課題となっているのも事実だ。

公立学校で夜の補習をしているのも学童保育の流れでしょう、という考え方もある。レアケースではあっても。しかし、この流れは下に向かっては行かない。なぜなら、中学で補習するのは前提として高校受験を措定できるからだ。公立校の小学生にはそれはない。

つくづく、この国の施政においては「受験に向けての学力」が錦の御旗なのだなあ、と思う。だから、先の市長も、全国統一学力テストでの大阪府の成績の悪さを慨嘆し、自分の出身高校の大学合格実績を見て、その不調に苛立っている。しかし、その拘りは全て結果であり、その結果もプロセスの一地点であるのは明白だ。学ぶということは、常にフェーズを上げていくことだからだ。
だから、年齢に関係なく学ぶ人は学ぶ。その力が学力なのだと思う。痛い経験や失敗も含めて、人間は学んでいく。

ということで、ルートを探ってトンネルを掘っていくのが、今の仕事だと思っている。喩えを拡げると、海図のない海であり、どこに流れ着くかわからないアマゾンの河下りだ。だから、面白い。
でも、モグラと違って大事なのは、視力だ。しっかりと物を見る力。少女漫画のように眼の回りに星が跳ねるような感じ。想像したら、そんなモグラは笑ってしまうが。それと、嗅覚も大切。

新年を迎える前に、初夢のようなものを書いて、この稿を終わる。モグラが土を払って、空に舞い上がって竜になるような夢。爽快だろうな。モグモグと鼻を押し付けていたところから、空に伸びて金色の爪を光らせる。竜の回りには稲妻が走る。なかなか縁起がよろしい。そして、その年の干支は辰、ということで。

今年は本当に激動の年だったと思う。2012年はどのような年になるのかな。では、来年もよろしく。

海路の日和 47 紅葉の京都を歩いた

2011年12月15日

12月の初めから、上北沢にある本社を離れて、当社の拠点になる東新宿(歌舞伎町)に移った。今までとは違う風景の中での仕事となる。
着任までの4日間をかけて、年明けからの目論見だった京都紅葉ツアーをおこなった。以前のブログで奈良の旅行を書いたが、今回は京都。何か、また日記風だなあ。

11月30日の昼過ぎに、本社の方々に挨拶をし、手を振ってタクシーに乗り込んだ。36年にわたる仕事だったが、思い出は次々と浮かび上がる。もし誰かに、今までの仕事の中で一番面白かった時期はいつですか、と聞かれたら、迷わずに東日本営業部長時代というだろう。市場を分割し、東日本エリアの統括責任者の頃だ。比率的には東2:西1というウェイトだった。

おそらく、面白さを感じた理由は、大きな数値責任を持ったことと、自分の仕事の流儀がどこまで試されるか、という意識だったと思う。自分の流儀なので、マニュアルはいらない。合意形成をしてもつまらないものはつまらないので、まず、自分のアイデアから仕事を進めた。
これが、私の「仕事の歩き方」になった。

さてと、京都の話。これは、予想が当たって、ちょうど紅葉の見頃の時期となった。暖冬の影響かな。いつもなら、11月中旬ということ。
どのスポットに行けばいいのか、という計画は妻が立てる。まず、嵐山に入り、嵯峨野周辺を歩く。嵐山公園から川沿いに歩いて、宝厳院~天竜寺などを歩いて宿に。平日だが、渡月橋周辺は混み合っている。二日目には、落柿舎~常寂光院~祇王寺~宝筐院~大覚寺と回った。特に、宝筐院の紅葉に圧倒された。参門を外から見ると、火事でも起きているように、紅葉が溢れている。まさに、燃える秋。脚に疲れが出てきているのは、寺から寺へと相当な距離を歩いているからだ。

奈良の時もそうだったが、風景を追い求めると、いやでも歩き続ける。奈良の旅の際に、予想したように、同じ古都でも京都は奈良ほどの「のほほん感」はない。店が賑わい、多くの人が群れをつくっている。そして、ため息をつくようにして自然に向かい合うことになる。

今年の春、日本は大きな自然災害を経験した。3月11日だ。しかし、しばらくして桜の花が咲き誇り、またしばらくして、うだるような暑い夏がやってきた。そして、秋には、自然は人々の営みに頓着せず変化して、このように感嘆するような美しさも投げかけてくる。力強い。

だから、自然と人間と並べた時に、「自然にやさしく」という人間の言葉が、高慢な匂いを漂わせる虚しいものになって響く。

夜は有名どころの清水寺のライトアップを見に行った。何か所かの寺でライトアップをしていて、清水の舞台から光を当てられた紅葉を見ようという趣向である。
いやあ、人ごみには参ったなあ。ラッシュの電車の混雑と変わらない。カメラを持った人々が犇きあっている状態。途中でルートを変更して速足で退散。

翌日は、毘沙門堂と東福寺を回った。毘沙門堂は、今年のJR東海の「そうだ京都、いこう」のポスターの写真になっているところだ。このポスターを見ると、読点が気になるが、あえてこのリズムにしているのだろう。参門の階段に舞い落ちた紅葉が敷き詰められている写真だ。

ここで、また面白い青年僧に出会った。奈良と同じように。20人くらいの客を前にして、「ようこそ、いらっしゃいました」と話し出す。毘沙門堂の歴史を語るのは、奈良の薬師寺と同じだが、毘沙門天がトラ年だと聞いて、興味がわく。神仏に干支があるのかい。そして、彼は言葉を続け、「徳川家康もトラ年です」と言う。ほお、そうか、自分と同じトラ年か。だから、家康も毘沙門天を大事にした、という話になる。

「JRのポスターになったせいで、こんなに多くのお客さんがいらっしゃいますが、この時期を外すと、いつもは平日に5人とか10人くらいしか参拝者はいません。まあ、これが普通ですかね。ほんとに貧乏寺です。この時期にお金はたくさん入りますが、寺の修理に使われたりして、私たちの給料は上がりません」。聞いている客は笑う。青白い細面のお坊さんは二コリともしない。この寺に入って2年目という若い人である。

奈良の時と同様に、若い僧侶の話が面白かった。おそらく、上司から、案内はおまえがやれと言われて、寺の説明をしているのだろうが、何かうちでやっている情報セミナーのようだ。自分のことばで語ること、だから、給料が上がらない、と言う。古参の僧から、僧侶の身でありながら、と文句を言われるかも知れない。こちらの方は、頑張れとエールを送りたい気持ちだ。


 

ということで、京都の旅を終えて、東新宿の拠点に着任した。天候にも恵まれて、燃える秋を楽しめた。
最後に、オマケの写真。この写真は母方の曾祖母が小学生の私にくれた二宮金次郎像だ。ちょうど、本社を離れる前に背中の荷物がはずれて落ちた。これも流れだな、と思った次第である。でも、だらけてるんじゃないよ、これからの地図を読みこんでいるわけで。

海路の日和 46 子どもはいつから学ぶのか

2011年11月29日

本題の前に、人間の記憶について考える。
ある作家の有名な文章で、産湯をつかっているときに、湯の回りに飛び跳ねる光を覚えている、というものがあった。個人的には、この作家に入れ込んだわけでもないので、うろ覚えではある。最初の印象は、ほんとかいな、自分で作り上げた記憶じゃないのか、というものだった。
自分を振り返ると、赤ん坊の時に籐のかごの中で暴れたことを覚えている。母が、内職だか何だかで、籐のかごから離れていて、暑さにむずがった私が、窮屈だと暴れたという記憶。まだ、ベビーベッドなどない時代で、狭いかごの中に赤ん坊をいれておけば安心だと母は思ったのだろう。
でも、この記憶も作られたものかもしれないので、本人に確認すると、そうしていたと言う。
もちろん、赤ん坊だった私は、その頃何も学んではいないし、こうしてくれるとありがたいが、などと意見をいうわけもない。そして、その記憶も事実ではなく夢だったかもしれない。

さて、子どもは、いつ頃から学び始めるのか。学ぶということが語源的に「まねぶ」というのなら、大人の真似をする頃、わからないことを聞き始める頃だろうか。もちろん、個体差はあるので、はい、三歳になったから学びを始めましょう、という区分など存在しない。
キーワードとなるような「三つ子の魂、百まで」があるにしても。
先に述べた記憶も、個体差があって窮屈さを我慢できる人と、我慢できない人に分かれると思う。成人して、世の中に出て、大人の世界も同じだと思った。自分で自分を窮屈にしている人間は多いのだな、と思った。

学びの起点は、まず「何に興味をもつか」ということだと思う。これに関しては、私はいい経験をしている。筑波大付属小学校の授業見学で経験させてもらった。

5年生の算数の授業だった。担当のY先生が授業をスタートさせる。まず、最初に5分間トークがある。当番制になっていて、男子生徒がその日の話し手だった。彼は、多くの参観者に緊張気味だったが、ブルートレインについて話し出した。ブルートレインの朝風は、と話を始め、寝台特急の歴史を語る。彼は、自分の思い入れで熱く語り、ボルテージが上がっていく。

そういう時、私は聞いている子どもたちが気になる。聞いている子どもたちを、じっくり観察する。頷いて聞いている子が多い。聞いている子どもたちの表情は豊かだ。もちろん、個体差はあっても、自分の知らないことを共感して聞ける子どもたちは、おそらく自分も同じような世界をもっているのだろうな、と私の直感は働く。

その5分間トークが、子どもたちの拍手を受けて終わると、次に先生は「ジャマイカ」というゲームをする。サイコロを4つ使うゲームだ。この4つを使って数式が完成した班は手を挙げる。スピードが要求される。数式は完成しないと判断したら、すぐにもう一度4つのサイコロを振らなければいけないからだ。子どもたちは嬉々としてこのゲームで騒いでいた。

そして、その後の授業は、「図形の合同」だった。大きな紙に6つの三角形の図があり、先生が手にしている三角形と同じなのはどれだ、という授業。これだと思うものに手を挙げさせる。結果として、違っているものが最多得票になっている。
次に、それを証明する道具を考えて発表するように先生は言う。多くの挙手のなかで、子どもを選んで答えさせる。私は、まず積極的な挙手に驚いていた。「コンパスと定規」という子どもや、「定規だけでいい」という子もいる。次の展開が面白かった。「なんで、A君は定規だけでいい、と思ったのかな、Bくん」という想像力に働きかける手法である。

そのうち、この授業見学のハイライトを私は経験する。「太陽だけでいい」という女の子が登場した。なぜか。「二つを合わせて太陽に透かして見ればいい」という答えだった。
よく、子どもの言ったことで、使われる話があって、「氷が溶けたら何になりますか」という問いかけに「春になります」というのが伝わっているが、おそらく、うそ臭いとかオチが綺麗すぎるぞ、と思うのは大人であって、あるいは、大人を刷り込まれた子どもであって、素直に発想できるのは、このような子どもたちではないのか、と思った。

授業後にY先生に聞いた。参観者の中にいた熊本の八代から来た教師の話が頭に引っ掛かっていたからだ。すごくスリリングな授業でしたが、やはり児童の質が違うということでしょうか、と。熊本の先生がそう言っていたとは言わない。ある種、失礼な質問だ。「まあ、それもあるでしょうが、1年生からやってますから。子どもたちの可能性にそんなに大きな違いはありません」とY先生は答えた。

この話はいろんな機会に話しているので、またか、と思う人には申し訳ないが、この時私は、「こんな世界に入っていくのかな」と直感が働いたのだ。で、今がある。

指導したがる大人が一方通行で指導する形は、まだ存在し続けると思うが、子どもたちの前に立って「教えること」をミッションにして、指導要領やコードや自己課題設定などを上から振りかける手法ではなく、後に回って子どもたちの背中を押すようなやり方を考えることが大事になる。語源としても、本来educationにはそういう意味があるのだし。

最後に授業のエピソードを付け加える。「太陽だけでいい」と言った女の子が、説明を終わると、2.3人の子どもたちが「カッコいい!」と声を挙げた。クラスの空気が揺れた。
この子たちは、この瞬間をまだ覚えているのだろうか、と今の私は思う。

海路の日和 45 J・Bハリスさんを思い出した

2011年11月16日

今月の2日に新宿KSビルで初めての英語講師セミナーを開催した。
金井さやか先生を講師としてのセミナーだった。最初に挨拶に立った私は「このセミナーは記念すべき第一回目のセミナーです」と話した。

その後、講師の方の躍動的な展開を後の席で見ていて、ふと昔の風景を思い出した。あれは、何年くらい前のことだろうか。頭の中で計算すると、25、6年前のことだ。
その頃、英検を目標とした英語コンテンツの担当責任者の仕事をしていた。特約店グループのマネージメント、加えて商品企画、上様顧客の管理という4つの仕事を兼任していた。30歳半ばの頃だ。

そして、年1回の英語講師に向けてのセミナーを開き、基調講演には英教と関わりのあったJ・Bハリスさんをお願いしたのだ。私の世代にとっては、ラジオ講座などで著名な方だった。今の若い人には余り知られていないかもしれない。

最初の打ち合わせでお会いした時、小柄なのを意外に思った。肩幅などはがっしりとした体格なのだが、私より身長はかなり低い。勝手な予見で大柄なアメリカ人を想定していたのだが、挨拶と紹介が終わった時に、彼はこう言った。「意外に小柄だなと思われたでしょう。だって私、日本人の年寄りですから」。もちろん、きれいな日本語である。

最初の出会いで、話しやすいと思われたのか、いろいろな話が出てきた。講演の打ち合わせなどは、そっちのけで、楽しく話が続いた。彼は、アメリカ人と日本人の間に生まれたので、子どもの頃はアメリカ人として周りから奇異な目で見られ、アメリカに帰ると、アメリカでは日本人と差別され、日本に帰ると、日本兵として徴兵され兵士になった。そして、アメリカと戦う。それを彼は楽しそうに話す。「私にも何だかわけがわかりません」と笑う。

日本名は平柳秀夫さんだ。子どもの時代の話になると、よく母親と銀座や浅草などに行ったということや、横浜の昔話などをした。落語も好きで、売れなかったらしいが、落語を演じたテープを市販していて、私にも一本渡してくれた。「いいと思うんですがね、売れません」。どれくらいレパートリーがあるか、と聞くと両方の手のひらを開いた。

5回ほど講演をお願いしたので、5~6年くらいのお付き合いだった。講演の際だけではなく、数回別の案件でもお会いすることがあったが、年齢の割にはパワフルな方だった。基調講演には、必ず落語で言うところのマクラを振った。思い出して、いくつか挙げてみようかな。

「みなさん、日本の国花はなんですか。桜と思うでしょう。違います。カーネーションです。だって、car nationですもの。日本の車は世界に知られてるでしょ」というものや、「あるアメリカ人が日本の田舎にやってきて、畑で芋掘りをしているところにきました。何となく転がっている芋を触っていると、お百姓さんが怒鳴ったので、あわてて時刻を言い返しました。さてお百姓さんはなんていったのでしょう」。答えは「掘った芋いじるな」である~What time is it now?だと。

他にも多くのギャグを飛ばして笑いを誘ったが、印象に残るエピソードがある。アメリカのノーベル賞作家のW・フォークナーが来日して長野で講演したときのこと。フォークナーは話に熱が入って滔々としゃべり続けた。通訳の存在も忘れて。そして、ようやく通訳が聴衆に話しかけたら、あっという間に通訳し終えたので、フォークナーは驚いた。「日本語はすごい言語のようだ。あんなに話したことを、こんなに短い時間で訳せるのか」と。ハリスさんは言う。「いや、それは彼の話があんまりにも長いので、通訳が端折って訳して、最後にこう言ったのです。さあ、皆さんフォークナーさんに盛大な拍手を、と。それによって、言語は違ってもコミュニケーションが成り立ちました」。

語彙の問題でも話したことがある。その時に話したことは、講演のネタにされた。言葉の多義性についてだ。「おかねといえば日本語ですぐに通じますね。でも、表現する場合に、日本人はいろいろな言い方をします。ゼニ、オアシ、飯のタネ、外国人にとって一番難しいのは先立つものという表現でしょう」と彼は言う。私が、英語でも同様のパターンがあるでしょう、と尋ねると、そうですね、runなんかいい例かもしれない。日本ではrunは走ることをイメージしますが、英語の語彙としては多様です」とハリスさんは答える。そして、事例を次々と挙げた。こういう言い回しを覚えていくと英語も楽しいでしょ、と言ったあと、言葉を継いで「でも、やはり日本語は美しい言語だと思います。おかねを表現するときに、わざと下品な表現をしてると思いませんか。これが日本人の美意識でしょう」。なるほど。
そこで私は、そうか、この人は日本人なのだった、と思う。

ハリスさんとお付き合いしていた頃に、私は日本語や英語も含めて全ての母国語は、コミュニケーションのツールだという考えを教えてもらった。その上で、異国間のやり取りがある。

私たちの仕事も、基礎構造として「教育というフィールドで、コミュニケーションの力をどのようにしていくのか」という命題が横たわる。

平柳秀夫さんは2004年に亡くなられた。享年88歳。彼が、今の日本のディスコミュニケーションの状況をどう見るのか、聞いてみたい気がする。

海路の日和 44 ことばの力

2011年10月28日

この10日ほど前から移動することの多い日々を過ごしている。
横浜~新宿~伊豆~仙台~千葉と動き回った。伊豆ってなんだ、となるが、当社の特約店会の旅行に参加したのである。これも区切りの旅行。長いお付き合いの面々と賑やかに過した。メンバーは、仕事の連携が長く続いた方々だ。私はここで一区切りつけるが、皆さんは、これからの継続する仕事とうまく付き合ってほしい、と思った。

昨日の出来事で「あれっ」と思ったことから話を始める。昨日、私は東京の丸の内で仕事をし、それから千葉に向かった。小学生向けのコンテンツについての話し合いだ。それが、終わって総武快速で新橋まで行き、それから銀座線で渋谷に向かう。
渋谷に着いた時に車掌がアナウンスした。
「みなさま、お疲れさまでした。これからも気をつけてお帰りください」という声掛けが車内に流れた。2005年以降、週に一回くらいの割合で日本橋の拠点に通っていたが、このようなアナウンスは初めての経験だった。

おそらく、このアナウンスはマニュアルによって発せられていない。銀座線で終着駅の渋谷に着いた経験は数多いが、初めてなのだから。
でも、と考える。ひょっとしたら、これはマニュアルで、律儀に守っているのがこの車掌だけかもしれないな、と。上からの方針で、このコメントがあっても、何言ってんだよ、これから出勤の人もいるだろう、とか、遊びに出ていく人いるだろう、とかもっともな意見が現場から出て、こんなの言わなくていいよ、という判断が拡がっているのかもしれない。文句言われたらどうするんだよ、これから仕事の私に、お帰りくださいはおかしいだろう、とか。至極もっともな話だ。しかし、と私は考える。

他人は知らないが、私はこの声掛けに対して、自然に、心の中で、はい、ありがとう、ということばを返した。この若い車掌が、終点の駅で、このような声掛けをする意志を持ったとしたら、それは彼自身の「自分のことば」なのだろうなと思った。

ようやく辿り着いたが、おはよう、とか、寒いですね、いいお天気で、おやすみ、などのことばの数々は単純だが、ある種の力を持つ。ことばの力。
私の好きな小津安二郎の作った「おはよう」という映画で、子どもたちが大人のこれらの挨拶を聞いて、何か意味があるのかよ、と反抗するシーンがあるが、大人は意味があると教えなくてはいけない。ことばに意味があるのではなく、伝えようとする気持ちに意味があるのだから。
大人の世界では、特に政治の世界ではことばは紋切り型で使われる場合が多い。紋切り型で表現することで本質を隠蔽できることを経験で知っているからだ。特に政治家や官僚。

例えば、最近TPPの問題が論議されるが、偏差値の高い教育機関を経てキャリアを積み、一定の権力を手にした人間が「バスに乗り遅れるな」ということばを使う。
どこ行きのバスだ?乗り遅れはしなかったが、違う観光バスに乗ってしまうこともあるだろう。ことばの先に現実がある。それを明確にすることより、バスに乗り遅れるなという。
このことばを使う人の意識(気持ち)に、こう言えば賛同するだろう、という読みが見られるが、それは自分に都合のいいだけの幻視である。

バスに乗り遅れたら、次のバスを待つか、歩いていけばいいのだ。子どもでも分かる、というか、子どもの方がわかる。むしろ、今これを買わなければとか、ここで投資しなければ置いていかれるぞ、と資本を投下して失敗している大人は、子どもには理解できない存在だろう。

これから、密度を高めて接していく子どもたちに、ことばの力を考えてもらいたい、と思う。ことばは、自分の気持ちを伝える道具だが、その前に、まず気持ちが大事だということ、そして、ことばによって相手がよりかかれるような安心感も与えられるが、深く傷つくことがあること、などである。

だから、私たちの開発したシステム(シャトル学習システム)ではことばの比重が高くなっている。教師との対話、家庭での話題という仕組みだ。そして継続する習慣、自分の考え方をしっかりと持つことなどだ。

話を若い車掌に戻す。彼は、ことばの力なんて考えていただろうか。ここからは想像だが、そのようなことではなく、ただ、マニュアル通りに、次の駅名をアナウンスし、電車の遅れを詫びるだけではないことをしたかった。たまには、お客に対してお疲れさまと声をかけるか、という感じ。仕事のルーティンから外れてもいいか。分かる人もいるだろう、という気持ち。その気持ちが、ことばとして車内に響いただけだと思う。

私は、分かる人には分かるだろう、というのがこれからの仕事の流儀だ、と思った。分かりにくいかもしれないが。だから、伝え方が重要になる。

そして、私にとっては、軽くて丈夫な靴と、腰を痛めないリュック型のカバンが重要なのだと思う。

海路の日和 43 Mr.Jobsのjobについて

2011年10月15日

二十歳の頃に考えた。これも前説だよ。なかなかタイトルにはいかない。
何を考えたかと言うと、将来のライフスタイル。もう少しリッチになれば、この三畳一間のアパートから脱出して、とりあえず風呂がありベッドのあるような生活をしたい。
次に贅沢なことを考える。夢見る若者である。その頃、ジャズ喫茶にはまっていて、部屋に分厚いしっかりした樫の木のテーブルを置き、大きなターンテーブルを置く。理想は、マイクロのターンテーブル。そして、マッキントッシュやJBL、マランツなどのオーディオ機器を設置し、上質のスピーカーでジャズを聞く。コーヒーミルで豆を挽いて、一口、二口とゆっくり飲む。おお、Myジャズ喫茶店だ。
そうこうしているうちに、レコードが消えCDに変わった。デジタル化だ。それが、MDに変わって、これはハズレだったが、ついにiPodの出現となる。ストアからダウンロードすれば1000曲でも入るよ、と開発した会社のトップはパフォーマンスをして見せた。

二十歳の頃の夢と大きく隔たったところに、私たちの時代は辿り着いた。そして、ヒーローになったジョブズがいた。
2005年には、iPod Nanoのプレゼンテーションをした。その際に、ジーンズに黒い丸首のセーターというファッションを利用して、ジーンズの二つのポケットのうちの小さな方からNanoを出して見せた。うまい見せ方であり、収納場所までをファッションとして提示したのである。この人50歳だが、感性は青年だな、と思った。アメリカ経済界の大手企業の経営者、例えばGMやフォードなどの自動車業界のトップとは一線を画している。経営破綻による審査会に自家用ジェット機では来ないだろう。

その後のプレゼンテーション(iPhoneやiPad)では、もう病勢が進んでいたのか、痩せた修行僧のような雰囲気を漂わせて説明をする。私が感心したのは、説明を極めて簡潔な形でしていく能力、そしてスタイルだった。

そして、このような流れは、ほとんどこの10年での変化ということだ。テクノロジーの進化、そしてデジタルの価値、ネットワークの社会的影響が、現代のフェーズアップを高速度で実現している。でも、人間の進化としてプレーンに捉えていいのかね、と思う。

話は変わるが、先の休日に所用があって銀座に行った。四丁目の交差点の近くのアップルストアの前に多くの献花があった。ニュース映像でも見たが、やはりこれほど信奉者がいるんだな、と思う。まあ、ファンと言い換えてもいいが。中にはジョブズの写真を携帯の裏に貼って、そのまま置いている人もいる。
さて、スティーブ・ジョブズの仕事観はどうだったのだろうか。

書きながら呟くのもなんだが、私はジョブズや、もう一人ヒーロー視されるであろうビル・ゲイツにそれほど興味があったわけでもない。ガレージから企業を立ち上げたとか、学生時代は劣等生だったなどの伝説化した情報は持っていたが、すごい若者たちだな、くらいの認識だった。とは言っても、自分より少し年下なだけだが。そして、ジョブズやゲイツになれなかった若者たちは、たくさんアメリカにいるのだろうな、という印象。

私は、ジョブズが亡くなった後のニュースに興味を持った。「世界を変えた男」というフレーズが繰り返され、オバマ大統領が追悼の声明を発表し、日本でも同系の企業を経営するトップが「現代のミケランジェロ」とまで言う。それって、ちょっと、違うだろ。

生活の様式において、通信ネットワーク、流通、音楽や写真・動画の面で、新たな価値を創出し、大きく変えたというのは、間違いなく彼の功績が大きいだろう。
そして、「ハングリーであれ、愚かであれ」という演説も、今話題になっているが、自分が病を得たのちの、若い人に向けてのエールだったと思える。

仕事観の延長線上にこのエールはあるのだ、と私は直感的に思う。Stayという動詞が示すように、ハングリーで愚かなことを若者の特権として、保ち続けよと言いたかったのだ。だから、この言葉は彼の仕事の流儀を示し、自分自身に向けてのエールとなっている。
でも、自分は50歳を超えて、病を得て戦っている。結局、彼は、死ぬまで仕事をしていたのだと思う。で、何のために?

変えるために、である。アップルを設立した時にIBMを意識してパソコンを変えた。このスタートから、彼は何かを変えることを仕事の価値にしたのだと思う。矢継ぎ早に開発する製品がそれを証明する。そして、彼の才能は、ここを変えると消費者の欲望が追随するという確信を持って、それを実現する力量をもっていたということだろう。

最後に出した4SはFor Steveではないか、と憶測する消費者がいる。遺作だと言う人がいる。だから買わなきゃ、と。死して後の、スティーブの最後のプレゼンテーションだったと思う。

海路の日和 42 せんとくんを探す旅だった

2011年9月30日

もう10月になる。速いもので、また新たな営業年度がスタートする。
以前、長い付き合いになる友人と話した際に、やはり人間は自分の生まれた月が一番好きなのじゃないか、ということになった。私は10月生まれなので、10月だ。確かに、自分自身の好みとして10月から深まる秋が一番好きな季節となる。次に、冬。October Countryから冬にかけての時間が心地よい。
昔だと、町の中に焚火の匂いが漂い、金木犀の香りがするような季節感が、もっと強くあったような気がする。彼岸を過ぎて、やはり、秋はやってきた。

今回は、のほほんブログ。

今期末の一区切りという感じで、関西地域の旅に出た。有馬温泉に浸かり、奈良に向かう。以前に書いたかも知れないが、19歳までは関西で暮らしていて、今でも神戸は好きな街の一つだ。波乱の大学浪人時代を過ごしたところでもある。馴染んだ三宮・元町界隈も地震による崩壊からしっかり立ち直っている。
しかし、京都・奈良はよく知らない。なぜか、というと小学生の頃に遠足で回った地域で、その後にはあまり行っていないというエリアなのだ。

今度の奈良行きも小学校の遠足以来。40年という時間を遥かに超えた再訪である。記憶をたどる旅だ。寺としては、興福寺・東大寺・薬師寺・唐招提寺しか覚えていない。それと若草山を友達と駆け登ったことか。あの時、下りを走り降りる時に足を捻挫した友達がいた。子どもというのは、バカなことをやるもんで、誰が言い出したのか、山を駆け上がって、それから走り降りるということを確か7,8人でやった。その中に、私はいた。先生に叱られた。

今回の旅は、小学校の時と同様に東大寺と薬師寺をポイントに入れたが、忘れてはいけないのは、興福寺の阿修羅像を見ることだった。これも小学生の時のうっすらとした記憶だが、戦いの像にしては、何か悲しげな顔だなあ、という印象だった。他の戦いを表す仏像は、荒々しい表情を浮かべているが、なぜか阿修羅はおとなしい静かな表情だ。あえて言うと、戦うことに耐えているような顔付き。もちろん、これは後年になって見た写真の印象が強い。

もう一つの目的は、せんとくんの着ぐるみとの記念撮影。妻に笑われたが、これだけはやりたい。
ケーエスコーポレイションの仕事をしていると、どうもキャラクターデザインが気になる。せんとくんは賞味期限の切れたキャラクターだ。それは、もともと平城遷都1300年を記念して作られたものだからだ。2010年で終わっている。このキャラクターはいろいろと問題視された。まず、奈良の寺から、仏様のデザインで鹿の角を付けるのは侮辱ではないか、という声が上がった。確かに、奈良を象徴するのは僧侶と鹿しかいないのかい、とも思うが、とりあえず不評だった記憶がある。しかし、テレビなどのメディアを通して、せんとくんは活躍した。着ぐるみが、町の中をうろうろと歩き回ってアピールした。
今はどうしてる、せんとくん。

奈良の駅周辺や寺を歩くときに気をつけてみたが、せんとくんの姿は見当たらない。ところどころにキャラクターとして見かけるが、やはり賞味期限が切れているのか。せんとくんに限らず、食べ物などいろいろなものに賞味期限はある。人の興味・関心においても、強く持ったものがいつのまにか希薄になっていくことも同様だろう。仕事の流儀もそうかもしれない。

薬師寺に行った際に、面白い若手の僧侶に会った。20人くらいの観光客を前に、奈良の案内をして、薬師寺の紹介をするということだったが、内容が面白い。客のつかみが速い。まず、奈良の寺と言えば、どこを思い浮かべますか、と聞く。観光客からは、東大寺、法隆寺という声が上がり、誰かが薬師寺、と言う。三番目に名前が出た時に、ありがとうございました、と彼は笑い、ひやひやしてましたが、今までやってきて大体そんな結果です、と言う。そこから、奈良の時代区分の話になる。

興味を持たせること、互いの笑いを交流させること、これが基本にある。奈良は何もないところですよ、8時を過ぎたら閉まる店も多いし、夜は暗いですよ、と彼は言う。確かにコンビニの数は極めて少ない。客を最後に笑わせたのは、「この薬師寺には14人の僧侶が修行中です。私がどのへんに位置するかは言いませんが、先輩が13人います」と言い、「もちろんいい先輩もいらっしゃいます。これ以上は申しません」と言ってにっこりと笑った。なんだ、せんとくんはここにいたんだ、と私は思った。

奈良はゆるいところだという印象をもった。京都はこうはいかないだろう。北と南を山に囲まれて、のんびりしたとこです、と奈良を紹介したこの若い僧侶は、10年後にはどうなっているのだろう。
思い返せば、小学生の時の奈良の印象と大きな変化はない。高層ビルが林立するわけでもなく、廻った寺の上には、台風が過ぎた後の青い空が拡がっている。


 

結局、せんとくんの着ぐるみに会うことなく、旅は終わった。歩くのは好きだが、ほんとによく歩いた二日間だった。撮った写真の一部を添付するが、社会を担当するM編集長が注意するかもしれない。写真の権利問題とか言って。まあ、そこは奈良のゆるさに免じて。

海路の日和 41  バザールの風景

2011年9月16日

9月半ばを過ぎても暑い日が続く。
先週は大学や専門学校を回り、今週は関西エリアへの出張と外に出ることが多く、汗かき仕事が続いた。現場に入ることによる発見も多い。面白い。

ここで昔の思い出話になるが、中学生の頃、理科の先生~権兵衛というあだ名だった~に「人間には3つのタイプがあって、歩く前に考えるタイプ、歩きながら考えるタイプ、歩いたあとに考えるタイプがある。お前はどれや」と聞かれたことがある。今思えば、なんで理科の教師がという話題だ。山本という名の先生なので、生徒たちはゴンベエと呼ぶ。山本権兵衛だね。

私は即座に答えたのを覚えている。「歩きながら考える」と。答えは簡単で、動いているのはこのタイプだけだったからだ。よく、母親に、この子は外に出ると糸の切れた凧みたいだ、と言われていたが、面目躍如といったところか。

権兵衛は、もう一つ尋ねてきた。「お前、キョウミシンシン、って書けるか」。「興味のあとに深いという字を二つでしょ」と答えると、「違うな。大津の津を二つ重ねるんや」と言って、「お前、漢字に強いと聞いてたがたいしたことはないな」と嬉しそうだった。
この対話を音声コンテンツにすると、関西弁のニュアンスとなる。特に、「たいしたことはないな」のアクセントは、私の記憶では神戸のアクセントでしか甦らない。

「考えるということは、興味津々から始まるんやで。お前は、ちゃんと何かに興味をもつ子になれ」と彼は言った。通学バスの隣に座った私に、彼は短い個人授業をしてくれたと思う。
5年ほど前にゴンベエの訃報に接した。彼も、自分の教え子がこんな形でエピソードを語るとは思っていなかっただろうな。話の枕はこれで終わる。

今回は市場について考える。ビジネスでは、シジョウと読むのが通例だが、ここはイチバという読み方で考える。
私たち、ケーエスコーポレイションが、これから構築するのはバザールだという宣言でもある。
いろんな都市にバザールがあり、ものの売り買いが活発に行われる。そこに根ざしていこうというイメージだ。商品は教育コンテンツしかないし、サービスもそれに付随したものしかない。ただ、このバザールは教育の軸となる指導要領からはフリーだ。その領域へのチャレンジと言ってもよい。

だから対話が極めて重要なアイテムとなる。買う側もチャレンジ領域を余儀なくされる筋合いのものである。だから、使う側と売り手の間の対話は必須条件となる。
とりあえず、私たちの構築中のイチバの屋台は大きく3つに分類される。「考えるちから」「表現するちから」「興味をもつちから」の3屋台。
そして、この3つの屋台は、全て連携してバザールとなる。どのコンテンツも有機的につながっていく。実は、この3要素は一つが独立していても、総合的な力にはなりえない。

このバザールは出入り自由であり、老若は問わない。国籍も問わない。屋台の左右にはコンテンツの棚が拡がっていくが、子どもがいても大人がいてもいいバザールなので、当然個々のニーズを対象とした射程距離を持つ。40年以上続いた出版社とは、そのへんが大きく違う。

設備の整った大きな船を横目で見ながら、私たち数少ないスタッフは、キャビンで海図の作成までする。企画勝負でいくから、当然の作業だ。
仕事に関するマニュアルはない。なくていいのである。経験値はほとんどないといってよい仕事にも取り組む。経営基盤となるような実績は、これからの話だ。だから、面白い。

多くの企業が経験したことを私たちは経験していく。最近、関西エリアを回った時に、幅広く学習機関をグループ化している大手企業を訪問した。そこで、創業者のエピソードを聞くと、スタート時点では生徒4人の学習塾だったとのことだった。このような事例は、多くあると思う。

私たちケーエスコーポレイションのスタッフが、小さな船に客を呼び込んで、賑やかなバザールにするのには二つの方法がある。一つの手法は網をかけること、お客を呼び込む手法を追求すること。もう一つは、ヘラブナ釣りのように、忍耐強くエサを同じポイントに投げ込むこと。ヘラブナ釣りの名人と言われた私の言うことだから信用してほしい。
だって、飽きもせず継続していくことは、教育の基本で、それができなきゃ教育は語れないでしょう、ということだ。何かやったらすぐ成果が、とか、収益がこんなに上がるぞ、という乗りはほかの企業に任すとして、妥当で適度な設計を組みたてることが、これからの仕事の基準だろう。

参考として、ビジネス紙に以前書いたものを添付する。言いたいことは重なるが、「やっぱり、ダメかあ」と笑えるようなタフなスタッフがいて、買い手とのやりとりや対話で賑やかなバザールを作っていくことが、私たちの目指すものだと思っている。
明るいバザールにしないと、ゲートの看板も輝かない。今、ゲートの看板に気づいている人は数が少ない。それが、武器なのだ、と思う。

参考記事:便利さで消えた”情”
アーカイブ・ビジネスアイ2007.3.7付