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	<title>阿部 安治ブログ ～海路の日和</title>
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		<title>海路の日和　５６　福島の旅をした</title>
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		<pubDate>Thu, 10 May 2012 09:50:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[ゴールデンウィークが終わった。遊んでいる時間は駆け足で通り過ぎる。 今回は、のほほん旅のブログになる。その前に…。 &#160; 休みの前に、学生時代の友人と渋谷で会った。Sとしておく。彼とは40年にわたる付き合いだが、年に2、3度の顔合わせをしている。なぜ、これほど少ないかというと、Sはインド在住だからだ。家族はオーストリアのザルツブルグにいて、彼にはインドでのビジネスがある。ゴアという州で小さな会社を経営している。私たちは、彼の里帰りの際に会うことにしている。 ゴアはムンバイの近くにある地域だと彼は説明するが、彼の「近く」はあてにならない。しかし、観光などで著名なところらしく、11月を過ぎる頃にはヨーロッパから多くの人々がバカンスでやってくると言う。滞在は短くて2週間くらいで、長いと一ヶ月くらいは海岸のそばでボーっとして過している人々がいるそうだ。 &#160; Sと会うと、いつも感じるが、少し前に会っていたかのように挨拶をしてすぐに話し出す。相手もそうだろうな、長い空白の時間を感じない。しかし、二人ともしっかりと年を経て「老い」を感じている。 「日本はどうだい？」と彼は聞いてくる。彼の実家は福島の喜多方にあって、昨年の震災後に会った時も、町全体が騒然していると話していた。あの時も聞いたな、「日本はどうだい？」 &#160; さあ、日本はどうなのかな、でもこれは言えるけど、日本人はそんなに長い休暇はとれないだろう、ヨーロッパとは違う。この休みに福島に行くが喜多方には寄らない。会津若松周辺の旅行だ。私が、そのような話をすると、彼は予想通りの反応をする。「やっぱり忙しい国だね」と。 &#160; Sがいろいろな国での放浪を始めたのは、アフリカ旅行が起点だと思う。その旅行は私も含めて３人で計画を立てたが、私は個人的な事由が生じて不参加になった。あの時にアフリカに行っていたら、どうなっていたか、と時々思うことがある。 &#160; 最初のインド旅行から帰国して彼が目を輝かせて語ったのはインドの「不思議」だった。時間の流れ方や人々の生活様式。ガンジス川で沐浴する人々。川の沿岸で行われる葬式。 &#160; で、今のインドは？と聞くと、若い人たちの台頭が国を変えつつある、と彼は言う。経済格差だけではなく、生きる様式の格差も大きいらしい。過去の伝統を無視して国の発展に寄与する、そんな若者が目立ち始めたということらしい。まあ、BRICSと称される経済構造では、BとIはそうだろうな。これからの南半球の人口増大は予測できる。 &#160; でも、その多くの若い人たちがアメリカ型の新自由主義を追いかけたらどうなるのか。すごいことになるのではないか。 &#160; でも、変わらないとところはずっとそのままの時間が過ぎているよ、とSは言う。それは、日本でも同じだ。都市は次々と変貌し隅田川沿いにも高いタワーが立つが、田舎に行くと数十年も風景の変わらない村が存在している。空がパノラマのように拡がり、自然の風をさえぎるものもないような風景だ。そこで人々は自然と融和し、あるいは戦いながら生活をしている。 &#160; 私がゴールデンウィークに旅行したところもそうだった。会津に行くのは、記憶では17年ぶりか。なぜ、前回を覚えているかと言うと、阪神・淡路大震災のあった年に行ったからである。 今回歩いて見て、Sの言っていたことが分かるような気がした。観光地が不振を極めているという話。特にそれは自分の故郷である喜多方のことだったが、福島の奥にある地域にも大震災の影響はあるのだろう。 旅行のルートは会津若松を回り、翌日は猪苗代湖周辺を歩く旅だったが、ちょうど桜の時期に重なって、静かに立つ桜は見ることができた。あいにくの天気ではあったが。よく歩いた。 17年前にSと歩いた会津若松の町は戊辰戦争の史蹟が多い。賊軍となった藩の将兵が討ち死にした城もあり、15、6歳の少年たちも命を散らした。そんな時代もあった町だ。 &#160; 今回見たかった風景、五色沼あたりでは、自然が何十年も変わらぬ様子で拡がっている。 おそらく、日本が発展する過程で忘れ去っているのは、このような風景であり、そこで生きていた人々なのだ、と思う。そこでは、時間がゆっくりと流れている。 &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ゴールデンウィークが終わった。遊んでいる時間は駆け足で通り過ぎる。</p>
<p>今回は、のほほん旅のブログになる。その前に…。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>休みの前に、学生時代の友人と渋谷で会った。Sとしておく。彼とは40年にわたる付き合いだが、年に2、3度の顔合わせをしている。なぜ、これほど少ないかというと、Sはインド在住だからだ。家族はオーストリアのザルツブルグにいて、彼にはインドでのビジネスがある。ゴアという州で小さな会社を経営している。私たちは、彼の里帰りの際に会うことにしている。</p>
<p><span id="more-478"></span><br />
ゴアはムンバイの近くにある地域だと彼は説明するが、彼の「近く」はあてにならない。しかし、観光などで著名なところらしく、11月を過ぎる頃にはヨーロッパから多くの人々がバカンスでやってくると言う。滞在は短くて2週間くらいで、長いと一ヶ月くらいは海岸のそばでボーっとして過している人々がいるそうだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>Sと会うと、いつも感じるが、少し前に会っていたかのように挨拶をしてすぐに話し出す。相手もそうだろうな、長い空白の時間を感じない。しかし、二人ともしっかりと年を経て「老い」を感じている。</p>
<p>「日本はどうだい？」と彼は聞いてくる。彼の実家は福島の喜多方にあって、昨年の震災後に会った時も、町全体が騒然していると話していた。あの時も聞いたな、「日本はどうだい？」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さあ、日本はどうなのかな、でもこれは言えるけど、日本人はそんなに長い休暇はとれないだろう、ヨーロッパとは違う。この休みに福島に行くが喜多方には寄らない。会津若松周辺の旅行だ。私が、そのような話をすると、彼は予想通りの反応をする。「やっぱり忙しい国だね」と。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>Sがいろいろな国での放浪を始めたのは、アフリカ旅行が起点だと思う。その旅行は私も含めて３人で計画を立てたが、私は個人的な事由が生じて不参加になった。あの時にアフリカに行っていたら、どうなっていたか、と時々思うことがある。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最初のインド旅行から帰国して彼が目を輝かせて語ったのはインドの「不思議」だった。時間の流れ方や人々の生活様式。ガンジス川で沐浴する人々。川の沿岸で行われる葬式。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>で、今のインドは？と聞くと、若い人たちの台頭が国を変えつつある、と彼は言う。経済格差だけではなく、生きる様式の格差も大きいらしい。過去の伝統を無視して国の発展に寄与する、そんな若者が目立ち始めたということらしい。まあ、BRICSと称される経済構造では、BとIはそうだろうな。これからの南半球の人口増大は予測できる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>でも、その多くの若い人たちがアメリカ型の新自由主義を追いかけたらどうなるのか。すごいことになるのではないか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>でも、変わらないとところはずっとそのままの時間が過ぎているよ、とSは言う。それは、日本でも同じだ。都市は次々と変貌し隅田川沿いにも高いタワーが立つが、田舎に行くと数十年も風景の変わらない村が存在している。空がパノラマのように拡がり、自然の風をさえぎるものもないような風景だ。そこで人々は自然と融和し、あるいは戦いながら生活をしている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私がゴールデンウィークに旅行したところもそうだった。会津に行くのは、記憶では17年ぶりか。なぜ、前回を覚えているかと言うと、阪神・淡路大震災のあった年に行ったからである。</p>
<p>今回歩いて見て、Sの言っていたことが分かるような気がした。観光地が不振を極めているという話。特にそれは自分の故郷である喜多方のことだったが、福島の奥にある地域にも大震災の影響はあるのだろう。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/05/P5041968_l.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-480" title="P5041968" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/05/P5041968.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>旅行のルートは会津若松を回り、翌日は猪苗代湖周辺を歩く旅だったが、ちょうど桜の時期に重なって、静かに立つ桜は見ることができた。あいにくの天気ではあったが。よく歩いた。</p>
<p>17年前にSと歩いた会津若松の町は戊辰戦争の史蹟が多い。賊軍となった藩の将兵が討ち死にした城もあり、15、6歳の少年たちも命を散らした。そんな時代もあった町だ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今回見たかった風景、五色沼あたりでは、自然が何十年も変わらぬ様子で拡がっている。</p>
<p>おそらく、日本が発展する過程で忘れ去っているのは、このような風景であり、そこで生きていた人々なのだ、と思う。そこでは、時間がゆっくりと流れている。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/05/P5041922_l.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-485" title="P5041922" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/05/P5041922.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
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		<title>海路の日和　５５　桜の森の満開の下</title>
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		<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 13:06:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[はやいもので、もう４月も半ばを過ぎている。 時間の経過とともに、いろいろな出来事が通り過ぎていく。テレビのニュースを見ていると、ほんとに日本の政治のダメさ加減がわかったりする。漢字四字で探すと、右顧左眄、優柔不断、右往左往、牽強付会、付和雷同、同床異夢などが浮かび上がる。原発の再稼働問題でもしばらく揺れることだろう。 本題に入る。以前もこのブログで桜の季節に触れたが、今回は花見の話。のんびりとしたブログになる。 年齢のせいもあるのか、四季の移り変わりに興味を持ち始めたのは50歳を過ぎたころだと思う。早春の梅、そして桜、若葉の輝く初夏、秋の紅葉、冬の雪景色。四季があるというのはいい。 風景のなかでの行事として、桜の季節は「ピカピカの一年生」という言葉に象徴されるように、学年の切り替わり、進学、企業への入社が挙げられる。しかし、東大が提唱したように、秋の入学という制度が導入されたらどうなるのか。世界の趨勢は秋の切り替わりであり、日本は少数派に属する。もちろん、少数派だからいけない、という論理も立つわけではない。ただ、もしこのシステム変更が行われたら、と考える。ただでさえ、学校のシステムにおいては様々な動きが出ていて、中高一貫や小中連携は、戦後の６３３制の構造を変えていくベクトルを持っている。 で、花見の話になる。3月の半ばくらいから慌ただしい日々が続いたので、気分転換に花見にでもいくか、と妻と話し、上野に出かけることにした。今までは、目黒川沿いを散策するのんびりとした花見や、井の頭公園などを歩いていたが、最大の人出と言われる上野に行くことにした。去年は東北の震災で自粛ムードになり上野や隅田川周辺は人出が少なかったように記憶している。 地下鉄の根津で降りて歩き出す。「谷根千」ルートということだ。30年以上前の私の担当地域だ。極めて大雑把な担当地域だった。文京区から隅田川を越えて千葉の方まで向かうエリアだった。ま、簡単に言うと、人がいなかったからだ。スタッフは、3人の役員も含めて15人程度だっただろうか。 コンピュータテストの回収業務の際には、まず首都高の護国寺で降りて、根津に向かう。それから、上野～千束～浅草～新小岩～亀有～立石～柴又～小松川、というようなルートを一日で回った。だから、不忍通りや言問通りは、懐かしい通りだ。その周辺の景色を見ながらのんびり歩く。もちろん、あたりの風景は一変し、30年以上前にテスト回収で回ったような教室も残ってはいない。鶯谷でビルを構えていたような大手の教室も、今はダンス教室になっている。 昔生徒が学習していたスペースで、今は着飾った大人が踊る。 途中に見つけたタイ焼き屋でタイ焼きを買って、それを食べながら根津神社で桜を眺める。予想より大きな神社だ。それから、谷中を回って上野に向かう。途中、上野桜木町にある、台湾のフルーツで有名な「愛玉子」に寄ってみたが、本日閉店の張り紙。おそらく、この店は人ごみを避けたのだろう。店の前で5、6人のおばさんたちが、今日休みだって、と騒いでいる。見たことのないテレビ番組だが、「ちい散歩」のようだ。 公園内は予想通りの人ごみだった。万単位の人々が桜の森の下に集まっている。ブルーシートを敷いて、場所を確保している会社もある。昔は、うちの会社でも花見をするグループがあったな、と思いだす。凄まじい喧騒の上に、桜の花が静かに拡がっている。 不忍池の回りを歩いていると、大きな声で中国語のアナウンスが流れた。中国人観光客が、観光バスを連ねて上野の桜を見に来ている。二週間ほど前の中国出張を思い出した。あのときも、高速鉄道の駅で大きな声でのアナウンスがあった。 戦後すぐの花見では、戦争が終わった安心感や解放感があったと思う。私の好きな写真家、木村伊兵衛にも花見風景を撮った作品があって、面白いのはネクタイを締めた大人がいる。仕事があることのうれしさ、家族と語らい笑いあえることの幸せが、空気として漂っていた。 今は、上野でも中国のエネルギーを感じる。この人たちは、この後に、秋葉原に繰り出して電化製品をまとめ買いするのかもしれない。桜の森の下で中国語が飛び交う。これも、流れか。 30年以上前の風景をノスタルジックに思い起こす私も、自分が中国での仕事に関わることは、その当時は想像もしなかった。何が起因しているのか分からない流れである。 もう一つの流れとして思うのは、万単位の人ごみの規模で人員削減をする企業。これほどの多くの人々が削減される。ソニーはどこでこのようなルートをたどることになったのか。3月期決算で純損益5200億を計上し、大規模リストラとなった。これも、流れの果てと言えなくもない。 しかし、人の仕事は流れをしっかりと見ることから始まる。そうでないと時機を逸するし、判断が甘ければ拙速のリスクもある。 売上と収益の高いものが勝ちだ、というような価値観を私は持たないが、その流れで行き着く先が人員削減というのは悲しくはないか。 今回も写真付き。世界的に「高さを誇る」スカイツリーを初めてみたので、この写真も。あえて、普通の老木と並べてみた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>はやいもので、もう４月も半ばを過ぎている。<br />
時間の経過とともに、いろいろな出来事が通り過ぎていく。テレビのニュースを見ていると、ほんとに日本の政治のダメさ加減がわかったりする。漢字四字で探すと、右顧左眄、優柔不断、右往左往、牽強付会、付和雷同、同床異夢などが浮かび上がる。原発の再稼働問題でもしばらく揺れることだろう。</p>
<p>本題に入る。以前もこのブログで桜の季節に触れたが、今回は花見の話。のんびりとしたブログになる。<br />
年齢のせいもあるのか、四季の移り変わりに興味を持ち始めたのは50歳を過ぎたころだと思う。早春の梅、そして桜、若葉の輝く初夏、秋の紅葉、冬の雪景色。四季があるというのはいい。</p>
<p>風景のなかでの行事として、桜の季節は「ピカピカの一年生」という言葉に象徴されるように、学年の切り替わり、進学、企業への入社が挙げられる。しかし、東大が提唱したように、秋の入学という制度が導入されたらどうなるのか。世界の趨勢は秋の切り替わりであり、日本は少数派に属する。もちろん、少数派だからいけない、という論理も立つわけではない。ただ、もしこのシステム変更が行われたら、と考える。ただでさえ、学校のシステムにおいては様々な動きが出ていて、中高一貫や小中連携は、戦後の６３３制の構造を変えていくベクトルを持っている。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071610_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-430" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071610.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>で、花見の話になる。3月の半ばくらいから慌ただしい日々が続いたので、気分転換に花見にでもいくか、と妻と話し、上野に出かけることにした。今までは、目黒川沿いを散策するのんびりとした花見や、井の頭公園などを歩いていたが、最大の人出と言われる上野に行くことにした。去年は東北の震災で自粛ムードになり上野や隅田川周辺は人出が少なかったように記憶している。</p>
<p>地下鉄の根津で降りて歩き出す。「谷根千」ルートということだ。30年以上前の私の担当地域だ。極めて大雑把な担当地域だった。文京区から隅田川を越えて千葉の方まで向かうエリアだった。ま、簡単に言うと、人がいなかったからだ。スタッフは、3人の役員も含めて15人程度だっただろうか。</p>
<p>コンピュータテストの回収業務の際には、まず首都高の護国寺で降りて、根津に向かう。それから、上野～千束～浅草～新小岩～亀有～立石～柴又～小松川、というようなルートを一日で回った。だから、不忍通りや言問通りは、懐かしい通りだ。その周辺の景色を見ながらのんびり歩く。もちろん、あたりの風景は一変し、30年以上前にテスト回収で回ったような教室も残ってはいない。鶯谷でビルを構えていたような大手の教室も、今はダンス教室になっている。<br />
昔生徒が学習していたスペースで、今は着飾った大人が踊る。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071663_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-430" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071663.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>途中に見つけたタイ焼き屋でタイ焼きを買って、それを食べながら根津神社で桜を眺める。予想より大きな神社だ。それから、谷中を回って上野に向かう。途中、上野桜木町にある、台湾のフルーツで有名な「愛玉子」に寄ってみたが、本日閉店の張り紙。おそらく、この店は人ごみを避けたのだろう。店の前で5、6人のおばさんたちが、今日休みだって、と騒いでいる。見たことのないテレビ番組だが、「ちい散歩」のようだ。</p>
<p>公園内は予想通りの人ごみだった。万単位の人々が桜の森の下に集まっている。ブルーシートを敷いて、場所を確保している会社もある。昔は、うちの会社でも花見をするグループがあったな、と思いだす。凄まじい喧騒の上に、桜の花が静かに拡がっている。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071641_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-430" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071641.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>不忍池の回りを歩いていると、大きな声で中国語のアナウンスが流れた。中国人観光客が、観光バスを連ねて上野の桜を見に来ている。二週間ほど前の中国出張を思い出した。あのときも、高速鉄道の駅で大きな声でのアナウンスがあった。<br />
戦後すぐの花見では、戦争が終わった安心感や解放感があったと思う。私の好きな写真家、木村伊兵衛にも花見風景を撮った作品があって、面白いのはネクタイを締めた大人がいる。仕事があることのうれしさ、家族と語らい笑いあえることの幸せが、空気として漂っていた。</p>
<p>今は、上野でも中国のエネルギーを感じる。この人たちは、この後に、秋葉原に繰り出して電化製品をまとめ買いするのかもしれない。桜の森の下で中国語が飛び交う。これも、流れか。<br />
30年以上前の風景をノスタルジックに思い起こす私も、自分が中国での仕事に関わることは、その当時は想像もしなかった。何が起因しているのか分からない流れである。</p>
<p>もう一つの流れとして思うのは、万単位の人ごみの規模で人員削減をする企業。これほどの多くの人々が削減される。ソニーはどこでこのようなルートをたどることになったのか。3月期決算で純損益5200億を計上し、大規模リストラとなった。これも、流れの果てと言えなくもない。<br />
しかし、人の仕事は流れをしっかりと見ることから始まる。そうでないと時機を逸するし、判断が甘ければ拙速のリスクもある。</p>
<p>売上と収益の高いものが勝ちだ、というような価値観を私は持たないが、その流れで行き着く先が人員削減というのは悲しくはないか。</p>
<p>今回も写真付き。世界的に「高さを誇る」スカイツリーを初めてみたので、この写真も。あえて、普通の老木と並べてみた。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071621_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-430" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P4071621.jpg" alt="" width="300" height="400" /></a></p>
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		<title>海路の日和　５４　積み上げられた本</title>
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		<pubDate>Mon, 02 Apr 2012 10:27:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[昨日まで中国出張のためブログのアップが少し遅くなった。 今回も湖南省の長沙を起点として動いたが、長沙から高速鉄道で広州～佛山というルートをとった。 高速鉄道は、やはり日本の新幹線によく似た印象だが、駅の大きさに驚いた。辿り着いて見上げると、空港かと見間違うような規模である。ここに、新幹線によく似た車両が入ってくる。「和諧号」と言う名の車両だ。中国では調和を意味する言葉らしい。日本の川崎重工の技術やJRのノウハウと中国自体の技術革新との「調和」としたのだろうか。 では、私たちの出版との｢調和｣は、と頭をよぎるものがある。 仕事が進むにつれ、中国の出版事情が少しずつ見えてくるが、技術的な面と販売手法の両面で理解を深めなくてはならない。 もう一つの課題は、出版物とネットの問題だ。長沙と比較して広州ではスマートフォンの看板を多く見かけた。佛山市の日本語学校の先生方に話を聞くと、なんであんなに高い物を、という感じらしい。ネットの活用は、情報以外でも多岐にわたる可能性がある。国家体制としての情報管理も強化しているのだろうが、出版物のコンテンツ管理はどうなのだろうか。 今回の標題となったのは、佛山の日本語学校のスタッフのお世話になって、地元の南海区桂城中学校を訪問した時の話だ。直接この学校の教師とも面談もでき、日本語授業の見学もさせてもらった。授業は、この日本語学校の教師が指導する。 クラスは中学１年生のクラス。これは日本では高校１年生ということになる。活発に声が上がる。活気のある授業だったのは、もちろん指導する先生の力量もあるが、生徒自体も日本の高校１年生と比較して純朴な印象を持った。日本の高校生なら、あんなに素直に反応しないだろうな。 そして、この日本語学校の責任者の方の案内によって、学校内の見学をした。この学校の規模は、各クラス５０人くらいで構成し、各学年に１０クラス以上あるというマンモス校だ。一クラスが５０人いるという話はノスタルジーを誘う。自分がそうだったからだ。私の小学校卒業の際には、５５人編成で１２クラスあった。先生は生徒が５５人もいる学級を指導しなければならなかった。今から見ると大変だな、と思う。 当然、目こぼれもあっただろうし、細かなところまでの指導は難しかっただろう。今の日本では、少人数制から個別対応まで準備する。あわせて、教育の価値の多様化も進んでいく。そして、経済格差が教育格差につながっていくのは、日中共通の流れになっている。 その見学の際に、「積み上げられた本」を見つけた。クラスに教師はいるが、生徒は黙々と机の上のテキストに向かっている。質問してみると、自習しているということだ。自分の机の上に、３０冊ではきかないほどの問題集が山積みになっている。そういった風景を、窓越しに見た。背表紙も折れ、手垢で汚れた教材の山。それぞれの生徒が競うように積み上げている。「これは、教室に置いたままにして、寮の自分の部屋では使わないんです」とガイドしてくれた責任者の方が教えてくれる。 その理由はすぐに理解できた。この学校は寮制になっていて、寮に入っている学生は部屋で学習する余裕がないということだ。学習が朝の8時過ぎから始まり、夜10時過ぎに終わるというシステムでは、学生に寮に帰ってからの学習を要求する方が無理だ。しかし、長い時間をかけて頑張るものだね。極めてアナログ的なやり方。おそらくこの国には「四当五落」という言葉は生きている。 参考に写真を載せるが、この建物で学生は生活をし、学習のために長い時間を費やしている。外には洗濯物が並んで干してある。４人で一部屋ということなので、ルームメイト同士でいろいろな話もしているだろう。この学校は佛山市で２番目にレベルの高い学校なので、多くの生徒がトップランクの大学に入るらしい。それからの夢なども話しているのだろうか。日本にもあるような、目指せ！官僚という路線かな。 他国の事情とはいえ、その生徒たちがプレッシャーにどう対応しているのか気になる。以前、大連の小学校の授業見学をした時、その学校の教師が、「神経が弱っている子どもたちもいます」と微笑みながら話していた記憶が甦る。勉強に押しつぶされる子どもたちがいる。 このようなひたむきさはどこから出てくるのだろう。おそらく「遅れている」という認識だと思う。先頭に立っていると思っている国は、最初から、遅れているから追っかけるという意識は希薄だ。前に具体的な目標がないのだから。人間の仕事と同じように、インプットとアウトプットの繰り返しで成長していくということだ。以前のブログでも書いたが、液晶テレビのシェアを韓国に抜かれたというエピソードがあった。これから日本のメーカーは追いかけるのだろう。 初めて手掛ける日本語テキスト～「簡明聴解」というタイトル～がどのように学生にインプットされるのか。それはこれからの動きだ。私たちの仕事は始まったばかりなのだ、と思う。 今回も絵日記風の写真を付ける。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨日まで中国出張のためブログのアップが少し遅くなった。<br />
今回も湖南省の長沙を起点として動いたが、長沙から高速鉄道で広州～佛山というルートをとった。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3281496_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-384" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3281496.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>高速鉄道は、やはり日本の新幹線によく似た印象だが、駅の大きさに驚いた。辿り着いて見上げると、空港かと見間違うような規模である。ここに、新幹線によく似た車両が入ってくる。「和諧号」と言う名の車両だ。中国では調和を意味する言葉らしい。日本の川崎重工の技術やJRのノウハウと中国自体の技術革新との「調和」としたのだろうか。</p>
<p>では、私たちの出版との｢調和｣は、と頭をよぎるものがある。</p>
<p>仕事が進むにつれ、中国の出版事情が少しずつ見えてくるが、技術的な面と販売手法の両面で理解を深めなくてはならない。<br />
もう一つの課題は、出版物とネットの問題だ。長沙と比較して広州ではスマートフォンの看板を多く見かけた。佛山市の日本語学校の先生方に話を聞くと、なんであんなに高い物を、という感じらしい。ネットの活用は、情報以外でも多岐にわたる可能性がある。国家体制としての情報管理も強化しているのだろうが、出版物のコンテンツ管理はどうなのだろうか。</p>
<p>今回の標題となったのは、佛山の日本語学校のスタッフのお世話になって、地元の南海区桂城中学校を訪問した時の話だ。直接この学校の教師とも面談もでき、日本語授業の見学もさせてもらった。授業は、この日本語学校の教師が指導する。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3281505_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-384" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3281505.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>クラスは中学１年生のクラス。これは日本では高校１年生ということになる。活発に声が上がる。活気のある授業だったのは、もちろん指導する先生の力量もあるが、生徒自体も日本の高校１年生と比較して純朴な印象を持った。日本の高校生なら、あんなに素直に反応しないだろうな。</p>
<p>そして、この日本語学校の責任者の方の案内によって、学校内の見学をした。この学校の規模は、各クラス５０人くらいで構成し、各学年に１０クラス以上あるというマンモス校だ。一クラスが５０人いるという話はノスタルジーを誘う。自分がそうだったからだ。私の小学校卒業の際には、５５人編成で１２クラスあった。先生は生徒が５５人もいる学級を指導しなければならなかった。今から見ると大変だな、と思う。</p>
<p>当然、目こぼれもあっただろうし、細かなところまでの指導は難しかっただろう。今の日本では、少人数制から個別対応まで準備する。あわせて、教育の価値の多様化も進んでいく。そして、経済格差が教育格差につながっていくのは、日中共通の流れになっている。</p>
<p>その見学の際に、「積み上げられた本」を見つけた。クラスに教師はいるが、生徒は黙々と机の上のテキストに向かっている。質問してみると、自習しているということだ。自分の机の上に、３０冊ではきかないほどの問題集が山積みになっている。そういった風景を、窓越しに見た。背表紙も折れ、手垢で汚れた教材の山。それぞれの生徒が競うように積み上げている。「これは、教室に置いたままにして、寮の自分の部屋では使わないんです」とガイドしてくれた責任者の方が教えてくれる。</p>
<p>その理由はすぐに理解できた。この学校は寮制になっていて、寮に入っている学生は部屋で学習する余裕がないということだ。学習が朝の8時過ぎから始まり、夜10時過ぎに終わるというシステムでは、学生に寮に帰ってからの学習を要求する方が無理だ。しかし、長い時間をかけて頑張るものだね。極めてアナログ的なやり方。おそらくこの国には「四当五落」という言葉は生きている。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3281510_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-384" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3281510.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
<p>参考に写真を載せるが、この建物で学生は生活をし、学習のために長い時間を費やしている。外には洗濯物が並んで干してある。４人で一部屋ということなので、ルームメイト同士でいろいろな話もしているだろう。この学校は佛山市で２番目にレベルの高い学校なので、多くの生徒がトップランクの大学に入るらしい。それからの夢なども話しているのだろうか。日本にもあるような、目指せ！官僚という路線かな。</p>
<p>他国の事情とはいえ、その生徒たちがプレッシャーにどう対応しているのか気になる。以前、大連の小学校の授業見学をした時、その学校の教師が、「神経が弱っている子どもたちもいます」と微笑みながら話していた記憶が甦る。勉強に押しつぶされる子どもたちがいる。</p>
<p>このようなひたむきさはどこから出てくるのだろう。おそらく「遅れている」という認識だと思う。先頭に立っていると思っている国は、最初から、遅れているから追っかけるという意識は希薄だ。前に具体的な目標がないのだから。人間の仕事と同じように、インプットとアウトプットの繰り返しで成長していくということだ。以前のブログでも書いたが、液晶テレビのシェアを韓国に抜かれたというエピソードがあった。これから日本のメーカーは追いかけるのだろう。</p>
<p>初めて手掛ける日本語テキスト～「簡明聴解」というタイトル～がどのように学生にインプットされるのか。それはこれからの動きだ。私たちの仕事は始まったばかりなのだ、と思う。</p>
<p>今回も絵日記風の写真を付ける。</p>
<p><a href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3261477_l.jpg" target="_blank"><img class="aligncenter size-full wp-image-384" src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2012/04/P3261477.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a></p>
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		<title>海路の日和　５３　失われた時間について</title>
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		<pubDate>Fri, 16 Mar 2012 08:39:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[あれから一年が過ぎた。３月１１日がやってきて、テレビも新聞も東日本大震災の話題に溢れた。 あの時は、私は明大前のＫＳコーポレイションにいて、印刷関係の打ち合わせや企画関連の話をしていた。そして、２時４６分を迎える。あれから、一年か。 地震と津波による甚大な犠牲のあとに、福島原発の問題が浮上した。その後の東電の動き、原子力保安院、政府、各省庁などの動きには考えさせられることが多かった。一年の後に、今はどうか。 津波になぎ倒された町の町長が、テレビの映像でこう言っている。「もし、これが東京だったら、こんなに手つかずじゃないだろう。やはり、田舎ではねえ」と。彼の後ろには、町が消失した索莫とした風景が拡がっている。土に突き刺さったような軽自動車も見える。 そして、政府筋の担当者も語る。福島の除染について。この人は細野豪志という環境大臣だが、内閣府と日本原子力研究開発機構とで構成した福島県除染推進チームを運営して、内閣府特命担当大臣（原子力行政担当）を兼任し、以前は内閣府特命担当大臣として原子力損害賠償支援機構に属していた。 名刺をいただきたいと思う。漢字がいくつあるか数えてみたい。 もちろん、このようなチームや支援機構だけではなく対策委員会や調査委員会の看板が立ち並んでいる。専門家と称される人々が集結する。さて、その経験豊かな学識のある人たちは、何をする? 先の「田舎ではねえ」と呟く町長は、肩書は漢字２文字だが、荒れ果てた風景と向き合い、そこに帰りたい町民と向き合わねばならない。復興という長いレンジではなく、その場所に帰りたいという町民にとって、最もスピードを求めるのは、除染であり瓦礫処理だろう。では、その点はどうか。 環境大臣はこう言う。「瓦礫処理については、今、ようやく検討に入って、受け入れ先なども含めて各地域のご理解をいただこうとしております」。ご理解？誰の？各地域というヴァーチャルな主語が理解を示すということか。 組織が機能不全に陥る落とし穴は、目に見えない合意と理解を基軸におくところにある、と私は思う。合意と理解のために人は会議を行い、ネゴシエーションを重ねるが、そこで「どうしたいか」という強い意志をも持たないと、「多くの立場からのご意見をうかがいながら＠対策委員会」という流儀に走る。何が失われるか。時間だと思う。 過去に何度も言ってきたことだが、組織図は仕事をしない。そして、システム偏重は個人の責任を不明瞭にする。 昨年の震災以降、過去の歴史を見てみようと思い、明治の三陸沖地震と関東大震災のことを調べた。もちろん、この二つの事例に原発事故はない。明治29年の三陸沖地震は、津波によって、やはり2万人を超える死者を出した。しかし、情報ネットワークが今ほど発達していない中で、政府の動きや地域での活動はスピードをもって行われたと思う。事例を細かく挙げることはしないが、一つ挙げると、夜津波に襲われた海岸沿いから、翌日の朝に海の方を眺めると、すでに海上に海軍の軍艦が並んでいたというスピードだった。国会でも次々と法案を可決し、予算の編成に入っていく。 そして、関東大震災の際には、都市計画（主に道路計画）から復興に向けて、スピードをもって施策を打っていった。後藤新平が中心になったと見ることができる。「大風呂敷」と言われた後藤は、最初に膨大な復興予算を打ち上げ、それから縮小するという手法をとった。土地の買い取り予算は、境界線の消失した土地の区画整理のために使われた。今、東京を走る幹線道路は、多くは震災後に設計し直して、直線的で幅が広いものに変えた道路である。 さて、この際に「各地域のご理解をいただこう」と努力する必要があった。具体的に言うと、自分の土地（財産）なのに道路にするというのは理解できないという人が多くいただろうし、道路にかかってない人と比較すると不平等だ、という錯綜した思いがあっただろう。そこで、後藤がチームとして選んだ人々は、現場に入って説得することになる。彼らの粘り強い対話が始まる。 彼らは、ある種の恫喝をした。同じような都市を作って、もう一度このような地震災害にあったらどうなるか分かるか、という恫喝だ。消防自動車も救急車も入っていけないような細い道を挟んで人家が密集していたらどうなるか、考えてくれ、という訴え方である。もちろん、全員の合意などは得ることができないが、工事に着手した。 また、先の町長の言葉を思い起こす。「田舎ではねえ」と寂しげに呟く町長の表情。時代の先端を走るように人が集中する都市部と、第一次産業に従事する地方の格差を、彼は感じているのだと思う。もちろん、震災以前からそうだった。 そして、被災地の人々が感じているのは、これから未来に向けてあるはずだった時間の喪失だ。 失われた家族のだれか、友人のだれかを繰り返し思いながら生きていく。喪失感と共に。この心象は、地域が復興しようがしまいが、個人としてずっと抱えていくものだろう。 私たちは、その状況を前に言うべき言葉を持たない。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>あれから一年が過ぎた。３月１１日がやってきて、テレビも新聞も東日本大震災の話題に溢れた。<br />
あの時は、私は明大前のＫＳコーポレイションにいて、印刷関係の打ち合わせや企画関連の話をしていた。そして、２時４６分を迎える。あれから、一年か。</p>
<p>地震と津波による甚大な犠牲のあとに、福島原発の問題が浮上した。その後の東電の動き、原子力保安院、政府、各省庁などの動きには考えさせられることが多かった。一年の後に、今はどうか。</p>
<p>津波になぎ倒された町の町長が、テレビの映像でこう言っている。「もし、これが東京だったら、こんなに手つかずじゃないだろう。やはり、田舎ではねえ」と。彼の後ろには、町が消失した索莫とした風景が拡がっている。土に突き刺さったような軽自動車も見える。</p>
<p>そして、政府筋の担当者も語る。福島の除染について。この人は細野豪志という環境大臣だが、内閣府と日本原子力研究開発機構とで構成した福島県除染推進チームを運営して、内閣府特命担当大臣（原子力行政担当）を兼任し、以前は内閣府特命担当大臣として原子力損害賠償支援機構に属していた。<br />
名刺をいただきたいと思う。漢字がいくつあるか数えてみたい。</p>
<p>もちろん、このようなチームや支援機構だけではなく対策委員会や調査委員会の看板が立ち並んでいる。専門家と称される人々が集結する。さて、その経験豊かな学識のある人たちは、何をする?</p>
<p>先の「田舎ではねえ」と呟く町長は、肩書は漢字２文字だが、荒れ果てた風景と向き合い、そこに帰りたい町民と向き合わねばならない。復興という長いレンジではなく、その場所に帰りたいという町民にとって、最もスピードを求めるのは、除染であり瓦礫処理だろう。では、その点はどうか。</p>
<p>環境大臣はこう言う。「瓦礫処理については、今、ようやく検討に入って、受け入れ先なども含めて各地域のご理解をいただこうとしております」。ご理解？誰の？各地域というヴァーチャルな主語が理解を示すということか。</p>
<p>組織が機能不全に陥る落とし穴は、目に見えない合意と理解を基軸におくところにある、と私は思う。合意と理解のために人は会議を行い、ネゴシエーションを重ねるが、そこで「どうしたいか」という強い意志をも持たないと、「多くの立場からのご意見をうかがいながら＠対策委員会」という流儀に走る。何が失われるか。時間だと思う。<br />
過去に何度も言ってきたことだが、組織図は仕事をしない。そして、システム偏重は個人の責任を不明瞭にする。</p>
<p>昨年の震災以降、過去の歴史を見てみようと思い、明治の三陸沖地震と関東大震災のことを調べた。もちろん、この二つの事例に原発事故はない。明治29年の三陸沖地震は、津波によって、やはり2万人を超える死者を出した。しかし、情報ネットワークが今ほど発達していない中で、政府の動きや地域での活動はスピードをもって行われたと思う。事例を細かく挙げることはしないが、一つ挙げると、夜津波に襲われた海岸沿いから、翌日の朝に海の方を眺めると、すでに海上に海軍の軍艦が並んでいたというスピードだった。国会でも次々と法案を可決し、予算の編成に入っていく。</p>
<p>そして、関東大震災の際には、都市計画（主に道路計画）から復興に向けて、スピードをもって施策を打っていった。後藤新平が中心になったと見ることができる。「大風呂敷」と言われた後藤は、最初に膨大な復興予算を打ち上げ、それから縮小するという手法をとった。土地の買い取り予算は、境界線の消失した土地の区画整理のために使われた。今、東京を走る幹線道路は、多くは震災後に設計し直して、直線的で幅が広いものに変えた道路である。</p>
<p>さて、この際に「各地域のご理解をいただこう」と努力する必要があった。具体的に言うと、自分の土地（財産）なのに道路にするというのは理解できないという人が多くいただろうし、道路にかかってない人と比較すると不平等だ、という錯綜した思いがあっただろう。そこで、後藤がチームとして選んだ人々は、現場に入って説得することになる。彼らの粘り強い対話が始まる。</p>
<p>彼らは、ある種の恫喝をした。同じような都市を作って、もう一度このような地震災害にあったらどうなるか分かるか、という恫喝だ。消防自動車も救急車も入っていけないような細い道を挟んで人家が密集していたらどうなるか、考えてくれ、という訴え方である。もちろん、全員の合意などは得ることができないが、工事に着手した。</p>
<p>また、先の町長の言葉を思い起こす。「田舎ではねえ」と寂しげに呟く町長の表情。時代の先端を走るように人が集中する都市部と、第一次産業に従事する地方の格差を、彼は感じているのだと思う。もちろん、震災以前からそうだった。</p>
<p>そして、被災地の人々が感じているのは、これから未来に向けてあるはずだった時間の喪失だ。<br />
失われた家族のだれか、友人のだれかを繰り返し思いながら生きていく。喪失感と共に。この心象は、地域が復興しようがしまいが、個人としてずっと抱えていくものだろう。<br />
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		<title>海路の日和　５２　コンピュータと人間が戦う</title>
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		<pubDate>Tue, 28 Feb 2012 09:55:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[先日、大阪と京都への出張をして帰京した時のこと、初めてパーフェクトを達成した。と言っても、何のことやらわからないと思う。 それは、電車の座席に座っている人たちの携帯電話使用率のことだ。一般的に電車の長いシートは７人掛けで設計されている。電車に乗っている時に、その座っている７人の状態を割合として見る。例えば、居眠り２、携帯３、読書１、ぼんやり１、と言う風に。これも風景を眺めながらの「遊び」のようなものだ。そして、携帯電話率が高くなっている今、全員が携帯電話とにらみ合っているという事態に遭遇したことがなかった。惜しい、一人だけ居眠りしている、という感じで様子を見ていた。 それが、７人全員が携帯を見ているという光景に初めて出会ったわけだ。だから、パーフェクト。携帯の内訳は、私が持っているような普通のものが２本、あと５本はスマートフォンの電話だ。品川から乗った電車だったが、みんな真面目な表情で携帯の画面を見て操作している。私は、この分野に詳しくはないが、ゲームやメールの類だと思う。手に持った道具と睨み合っている風景は、何かユーモラスなものを感じる。女性は一人だけで、あとは勤め帰りのサラリーマンだろうか。 何かと戦っているように真剣な表情の男たちを見て、不思議な気持ちになった。普通なら、もっと緩んでいてもいいはずだが、仕事のストレス解消が、この道具を睨みつけることなのか。以前見たテレビのニュースで、若い人が低収入で苦労しているという内容のものがあったが、携帯代が１万円を超えてばかにならない、という話があった。なるほど、そういうものか。じゃ、やめればいいじゃないか、と思うのは私の価値観である。 さて、ここから本題に入る。マクラで述べたことは、「道具」と戦っているように見えたという話だったが、本当にコンピュータと戦ったという出来事について。 将棋の話だ。先日、米長邦雄永世棋聖とコンピュータ「ボンクラーズ」の戦いがあった。結果はニュースにもなったが、米倉邦雄の敗北に終わった。富士通研究所の開発したコンピュータが1000勝を超える経験を持つ棋士を破ったのである。コンピュータが、海外でチェスの名人を負かしたことは、かなり前のニュースで知っていたが、チェスと違い、将棋は相手から取った駒が使えるという複雑さを持つ。確率的にも膨大なデータが必要だろう。膨大なデータを収納したコンピュータのシステムが経験を積み上げたはずの人間に勝つ。何か悔しい気もする。もちろん、勝ったコンピュータ自体が喜びを表現してガッツポーズをとることはない。静かに電源を切られるだけである。 では、棋士の敗因はどこにあったのか。 米倉棋士の指し手に特徴が二つある。第一手で定石から外れたこと、王将を上げていったこと、の二つだ。王を上げて敵陣に向かうという攻めは、奇手と言ってよい。ここまで、書いていて気付くが、将棋を全く知らない人には何のことやら、だろうが、まあそこは勘弁してもらう。 子どものころ、私たちの遊びといえば、体を動かすのは野球、二人揃えば「将棋でもするか」というくらいだった。一人だとマンガ。今の子どもたちのようにコンピュータゲームで遊ぶという世界はない。将棋以外では、五目並べがあり、その延長で大人が囲碁をしているのを見たら、「かっこいいな」と思う時代に育ったのだ。囲碁は大局を見るという意味でも、将棋より一段高く見られていた。番台に座って、近づく蚊を団扇で叩きながら将棋を指す。そんな風景があった。 そこでは、定石というものが存在する。例えば、王を囲うための定石。囲いや矢倉という名称で呼ばれるものだ。私自身は王を囲って守るより、飛車を振る戦法を流儀としていた。とにかく飛車をどう飛ばすか、相手の布陣に道は空いていないか、を睨みながら指していた。 米倉棋士は、なぜ定石を使わずに戦おうとしたのか。戦後に彼はこう言った。「コンピュータ相手なので、データにない戦い方で撹乱してやろうと思った」と。なるほど、それなら中盤あたりの金と銀を密着して並べたという奇手もその手だったのか、と思える。中途半端な複雑さだ。 では、コンピュータは撹乱されたのか。その手を進めている時、コンピュータは無意味な動きをずっと続けていた。飛車を左右に行ったり来たりさせて、遊んだのである。その遊びが、撹乱しようとする棋士の手筋を混乱させることになった。攻めに焦りが生じた。そして、敗北。 端歩突きで有名な阪田三吉以後に、奇手を使う傾向の棋士は多くいた。しかし、その人たちの強さは、自然体で奇手を自分のものにするという揺るぎないものだったと言える。そこで、答えは見える。米長は自分の自然体を崩す形で、コンピュータに向かったのだと思う。データ豊富なものとの戦いで自然体を崩した。自分に蓄積された経験データ生かして、意識過剰になることなく、自然体で鼻歌でも歌いながら戦えばよかったのに、と思う。もちろん、それでも負けたかもしれないが。 「ボンクラーズ」の膨大なデータ量が、経験豊かな「人間」の能力を上回ったと見る人もいるだろう。だから、データは大事、となる。でも、人間の仕事はそれだけじゃ終わらんよな、と私は思う。データを束ねて、仕事の目途がついたという経験はない。むしろ、そこから始まる。動くことによって成功と失敗を重ねて経験していくし、何かを学ぶ。それの繰り返しが人の営みであり、何よりも勝負に固執して負けたという心情を、コンピュータが得ることはない。彼は、確率を含めた膨大な演算をクールにおこなって、電源を切られたら仕事を終わるという「道具」なのだから。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>先日、大阪と京都への出張をして帰京した時のこと、初めてパーフェクトを達成した。と言っても、何のことやらわからないと思う。</p>
<p>それは、電車の座席に座っている人たちの携帯電話使用率のことだ。一般的に電車の長いシートは７人掛けで設計されている。電車に乗っている時に、その座っている７人の状態を割合として見る。例えば、居眠り２、携帯３、読書１、ぼんやり１、と言う風に。これも風景を眺めながらの「遊び」のようなものだ。そして、携帯電話率が高くなっている今、全員が携帯電話とにらみ合っているという事態に遭遇したことがなかった。惜しい、一人だけ居眠りしている、という感じで様子を見ていた。</p>
<p>それが、７人全員が携帯を見ているという光景に初めて出会ったわけだ。だから、パーフェクト。携帯の内訳は、私が持っているような普通のものが２本、あと５本はスマートフォンの電話だ。品川から乗った電車だったが、みんな真面目な表情で携帯の画面を見て操作している。私は、この分野に詳しくはないが、ゲームやメールの類だと思う。手に持った道具と睨み合っている風景は、何かユーモラスなものを感じる。女性は一人だけで、あとは勤め帰りのサラリーマンだろうか。</p>
<p>何かと戦っているように真剣な表情の男たちを見て、不思議な気持ちになった。普通なら、もっと緩んでいてもいいはずだが、仕事のストレス解消が、この道具を睨みつけることなのか。以前見たテレビのニュースで、若い人が低収入で苦労しているという内容のものがあったが、携帯代が１万円を超えてばかにならない、という話があった。なるほど、そういうものか。じゃ、やめればいいじゃないか、と思うのは私の価値観である。</p>
<p>さて、ここから本題に入る。マクラで述べたことは、「道具」と戦っているように見えたという話だったが、本当にコンピュータと戦ったという出来事について。</p>
<p>将棋の話だ。先日、米長邦雄永世棋聖とコンピュータ「ボンクラーズ」の戦いがあった。結果はニュースにもなったが、米倉邦雄の敗北に終わった。富士通研究所の開発したコンピュータが1000勝を超える経験を持つ棋士を破ったのである。コンピュータが、海外でチェスの名人を負かしたことは、かなり前のニュースで知っていたが、チェスと違い、将棋は相手から取った駒が使えるという複雑さを持つ。確率的にも膨大なデータが必要だろう。膨大なデータを収納したコンピュータのシステムが経験を積み上げたはずの人間に勝つ。何か悔しい気もする。もちろん、勝ったコンピュータ自体が喜びを表現してガッツポーズをとることはない。静かに電源を切られるだけである。</p>
<p>では、棋士の敗因はどこにあったのか。</p>
<p>米倉棋士の指し手に特徴が二つある。第一手で定石から外れたこと、王将を上げていったこと、の二つだ。王を上げて敵陣に向かうという攻めは、奇手と言ってよい。ここまで、書いていて気付くが、将棋を全く知らない人には何のことやら、だろうが、まあそこは勘弁してもらう。</p>
<p>子どものころ、私たちの遊びといえば、体を動かすのは野球、二人揃えば「将棋でもするか」というくらいだった。一人だとマンガ。今の子どもたちのようにコンピュータゲームで遊ぶという世界はない。将棋以外では、五目並べがあり、その延長で大人が囲碁をしているのを見たら、「かっこいいな」と思う時代に育ったのだ。囲碁は大局を見るという意味でも、将棋より一段高く見られていた。番台に座って、近づく蚊を団扇で叩きながら将棋を指す。そんな風景があった。</p>
<p>そこでは、定石というものが存在する。例えば、王を囲うための定石。囲いや矢倉という名称で呼ばれるものだ。私自身は王を囲って守るより、飛車を振る戦法を流儀としていた。とにかく飛車をどう飛ばすか、相手の布陣に道は空いていないか、を睨みながら指していた。</p>
<p>米倉棋士は、なぜ定石を使わずに戦おうとしたのか。戦後に彼はこう言った。「コンピュータ相手なので、データにない戦い方で撹乱してやろうと思った」と。なるほど、それなら中盤あたりの金と銀を密着して並べたという奇手もその手だったのか、と思える。中途半端な複雑さだ。</p>
<p>では、コンピュータは撹乱されたのか。その手を進めている時、コンピュータは無意味な動きをずっと続けていた。飛車を左右に行ったり来たりさせて、遊んだのである。その遊びが、撹乱しようとする棋士の手筋を混乱させることになった。攻めに焦りが生じた。そして、敗北。</p>
<p>端歩突きで有名な阪田三吉以後に、奇手を使う傾向の棋士は多くいた。しかし、その人たちの強さは、自然体で奇手を自分のものにするという揺るぎないものだったと言える。そこで、答えは見える。米長は自分の自然体を崩す形で、コンピュータに向かったのだと思う。データ豊富なものとの戦いで自然体を崩した。自分に蓄積された経験データ生かして、意識過剰になることなく、自然体で鼻歌でも歌いながら戦えばよかったのに、と思う。もちろん、それでも負けたかもしれないが。</p>
<p>「ボンクラーズ」の膨大なデータ量が、経験豊かな「人間」の能力を上回ったと見る人もいるだろう。だから、データは大事、となる。でも、人間の仕事はそれだけじゃ終わらんよな、と私は思う。データを束ねて、仕事の目途がついたという経験はない。むしろ、そこから始まる。動くことによって成功と失敗を重ねて経験していくし、何かを学ぶ。それの繰り返しが人の営みであり、何よりも勝負に固執して負けたという心情を、コンピュータが得ることはない。彼は、確率を含めた膨大な演算をクールにおこなって、電源を切られたら仕事を終わるという「道具」なのだから。</p>
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		<title>海路の日和　５１　モノが売れるということ</title>
		<link>http://www.ks-edu.co.jp/blog/?p=402</link>
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		<pubDate>Mon, 20 Feb 2012 06:51:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[先日テレビを見ていると、あれっと思うニュースが流れた。 テレビの販売台数で、韓国の二社が1・2位を占めたというニュースである。サムソン電子とＬＧエレクトロニクスの二社だ。リビングルームのソファで本を読みながら見たニュースなので、最初の方は聞き流していたが、ソニーもパナソニックも三位以下になったという報道だった。 私の物心がついた頃から、テレビと言えば日本の商品が強いという印象だったが、そうか、韓国が上位を占めたのか、と思った。そして、次のナレーションに、また視線が吸い寄せられた。韓国のメーカーが中東に販売する際に、その時間帯がきたら自動的に「コーラン」が流れるという仕組みらしい。なるほど。そういった付加価値か。そのアイデアはどこからでたのだろう。 おそらく現場で状況を見た人々からだろう。机上のアイデアではない。私は、その時、遥か昔に自分が書いた社内通信を思い出した。ラジオの話だ。 確かパナソニックだったと記憶するが、やはり中東地域にラジオを販売する際に、飛躍的に販売数字を伸ばしたことがあった。その要因は、もちろんラジオの製品としての品質の高さや、技術の強さがあったが、それに加えて、細かな砂を防ぐネットがあった。砂漠地域の砂嵐に対応するためだ。 この付加価値が業界で注目を浴び、技術者が商品説明するというインパクトを与えた。 技術者が現場の情報によって、工夫して商品に価値を与える。そして、販売スタッフより分かりやすい説明をする。これが、そのメーカーの当時の流儀だった。 このエピソードを書いた時に、私の頭の中にあったのは、出版という業態であってもモノを作った人間の思いを、しっかりと顧客に伝えることが大事なのではないか、ということだった。一般的な営業＝売る人、製作＝作る人という枠組みを守るだけでは、できない何かがある。そう思った。 韓国の二社は薄型液晶テレビを中心に売っている。日本のお家芸だったはずなのに。そして、大型テレビに特徴をもたせる売り方である。そのニュースを見ていると、日本のメーカーの役員が、いやあ、これから私たちも頑張らなければ、というコメントをしている。さて、何をどのように頑張るか。 モノが売れるということは、大きく二つの分類ができる。ブームになって消費者が飛びつくという売れ方、そして長く継続的にニーズを支えて売れるという売れ方だと思う。 前者の例では、「ダッコちゃん」や「フラフープ」（古い！）、たまごっち、ビックリマンチョコなどが頭に浮かぶ。後者の例では、インスタントコーヒー、マヨネーズ、インスタントラーメン、清涼飲料水などがあげられる。後者に食品関連が多いのは、もちろん日常の生活との密着度だ。 ブームになるモノは、なくても別段生活に困らない。そういえば、ラー油も少し前はブームだった。 モノが売れなかったために倒産する企業も出てくる。最近の事例であげると、イーストマンコダック社。映画や写真が好きな私にとっては、馴染みのあるアメリカ企業だ。一族のリンダ・イーストマンがビートルズのポール・マッカートニーと結婚したのも昔の出来事。とにかく、フィルムのメーカーとしては大きな牙城を築いた。でも、デジカメの浸透や映画製作の手法の変化は、この会社に大きな打撃を与えたのだろう。それでは、富士フィルムは・・・。化粧品のシェアを伸ばしている。 この点が企業の勘所だと思える。生物のように、企業も変わらなければ継続できない。生物の多様性はそれによって生まれる。環境に適合させて、人間から見ても巧妙なくらいの仕組みを自らが作る。種の保存も含めて、生き延びる能力の高い生きものは、変わることができる、ということが大前提となる。 モノの売れ筋は、マーケットの潮流と無縁ではありえない。そして、その潮流も最初は小さなものだ。揚子江の源流にあの大規模な風景はない。おそらく小川といってもいいくらいの規模。ブームになったものも、最初の頃に、腰でフラフープを回した人たちや、腕にダッコちゃんを巻きつけて町を歩く人たちがいた。その瞬間、周囲は奇異の目で見ていただろう。これが商品の歴史だと思う。 私たちの継続的な商品価値ということに話を移す。ブームという現象は、飽きられることを前提とした話なので、継続とは位相が違う。さて、どうしたら飽きられない仕事となり、モノが売れるということに繋がるのか。やはり、基本は人間関係だろう。 ブランド力で継続するものではなく、自分たちで人間関係をつなぎとめていくことが重要となる。 商品が売れる前に必要なのは、人間関係の強さ、信頼を持ちあって対話ができるか、どうかだ。 だから、商品が売れるのには、その前に売り手と買い手の相互の信頼感の贈与がある。プレゼントするものは情報であったり、考え方であったりするが、基本は相手を信頼することから始まる。 仮説を立て、ロジックを組みたてても通じない場合は多い。こうなるはずだったのに、という感想は、束にして燃やすほどある。私の場合、それより優先するのは勘といって悪ければ、想像力も含めた感性だった。その感性を得るためには、現場に入るしかないと思って、それが仕事になった。だから、準備の時間と相手と話すための計画性が重要だと思っていた。 タイトルを「モノを売る」としなかったのは、そういう理由による。モノが売れるというのは、自分が売ったという以前に、買い手との共同作業だと考えるからである。では、また。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>先日テレビを見ていると、あれっと思うニュースが流れた。<br />
テレビの販売台数で、韓国の二社が1・2位を占めたというニュースである。サムソン電子とＬＧエレクトロニクスの二社だ。リビングルームのソファで本を読みながら見たニュースなので、最初の方は聞き流していたが、ソニーもパナソニックも三位以下になったという報道だった。</p>
<p>私の物心がついた頃から、テレビと言えば日本の商品が強いという印象だったが、そうか、韓国が上位を占めたのか、と思った。そして、次のナレーションに、また視線が吸い寄せられた。韓国のメーカーが中東に販売する際に、その時間帯がきたら自動的に「コーラン」が流れるという仕組みらしい。なるほど。そういった付加価値か。そのアイデアはどこからでたのだろう。</p>
<p>おそらく現場で状況を見た人々からだろう。机上のアイデアではない。私は、その時、遥か昔に自分が書いた社内通信を思い出した。ラジオの話だ。<br />
確かパナソニックだったと記憶するが、やはり中東地域にラジオを販売する際に、飛躍的に販売数字を伸ばしたことがあった。その要因は、もちろんラジオの製品としての品質の高さや、技術の強さがあったが、それに加えて、細かな砂を防ぐネットがあった。砂漠地域の砂嵐に対応するためだ。<br />
この付加価値が業界で注目を浴び、技術者が商品説明するというインパクトを与えた。</p>
<p>技術者が現場の情報によって、工夫して商品に価値を与える。そして、販売スタッフより分かりやすい説明をする。これが、そのメーカーの当時の流儀だった。<br />
このエピソードを書いた時に、私の頭の中にあったのは、出版という業態であってもモノを作った人間の思いを、しっかりと顧客に伝えることが大事なのではないか、ということだった。一般的な営業＝売る人、製作＝作る人という枠組みを守るだけでは、できない何かがある。そう思った。</p>
<p>韓国の二社は薄型液晶テレビを中心に売っている。日本のお家芸だったはずなのに。そして、大型テレビに特徴をもたせる売り方である。そのニュースを見ていると、日本のメーカーの役員が、いやあ、これから私たちも頑張らなければ、というコメントをしている。さて、何をどのように頑張るか。</p>
<p>モノが売れるということは、大きく二つの分類ができる。ブームになって消費者が飛びつくという売れ方、そして長く継続的にニーズを支えて売れるという売れ方だと思う。<br />
前者の例では、「ダッコちゃん」や「フラフープ」（古い！）、たまごっち、ビックリマンチョコなどが頭に浮かぶ。後者の例では、インスタントコーヒー、マヨネーズ、インスタントラーメン、清涼飲料水などがあげられる。後者に食品関連が多いのは、もちろん日常の生活との密着度だ。<br />
ブームになるモノは、なくても別段生活に困らない。そういえば、ラー油も少し前はブームだった。</p>
<p>モノが売れなかったために倒産する企業も出てくる。最近の事例であげると、イーストマンコダック社。映画や写真が好きな私にとっては、馴染みのあるアメリカ企業だ。一族のリンダ・イーストマンがビートルズのポール・マッカートニーと結婚したのも昔の出来事。とにかく、フィルムのメーカーとしては大きな牙城を築いた。でも、デジカメの浸透や映画製作の手法の変化は、この会社に大きな打撃を与えたのだろう。それでは、富士フィルムは・・・。化粧品のシェアを伸ばしている。</p>
<p>この点が企業の勘所だと思える。生物のように、企業も変わらなければ継続できない。生物の多様性はそれによって生まれる。環境に適合させて、人間から見ても巧妙なくらいの仕組みを自らが作る。種の保存も含めて、生き延びる能力の高い生きものは、変わることができる、ということが大前提となる。</p>
<p>モノの売れ筋は、マーケットの潮流と無縁ではありえない。そして、その潮流も最初は小さなものだ。揚子江の源流にあの大規模な風景はない。おそらく小川といってもいいくらいの規模。ブームになったものも、最初の頃に、腰でフラフープを回した人たちや、腕にダッコちゃんを巻きつけて町を歩く人たちがいた。その瞬間、周囲は奇異の目で見ていただろう。これが商品の歴史だと思う。</p>
<p>私たちの継続的な商品価値ということに話を移す。ブームという現象は、飽きられることを前提とした話なので、継続とは位相が違う。さて、どうしたら飽きられない仕事となり、モノが売れるということに繋がるのか。やはり、基本は人間関係だろう。</p>
<p>ブランド力で継続するものではなく、自分たちで人間関係をつなぎとめていくことが重要となる。<br />
商品が売れる前に必要なのは、人間関係の強さ、信頼を持ちあって対話ができるか、どうかだ。<br />
だから、商品が売れるのには、その前に売り手と買い手の相互の信頼感の贈与がある。プレゼントするものは情報であったり、考え方であったりするが、基本は相手を信頼することから始まる。</p>
<p>仮説を立て、ロジックを組みたてても通じない場合は多い。こうなるはずだったのに、という感想は、束にして燃やすほどある。私の場合、それより優先するのは勘といって悪ければ、想像力も含めた感性だった。その感性を得るためには、現場に入るしかないと思って、それが仕事になった。だから、準備の時間と相手と話すための計画性が重要だと思っていた。</p>
<p>タイトルを「モノを売る」としなかったのは、そういう理由による。モノが売れるというのは、自分が売ったという以前に、買い手との共同作業だと考えるからである。では、また。</p>
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		<title>海路の日和　５０　キャリア教育について考えた</title>
		<link>http://www.ks-edu.co.jp/blog/?p=399</link>
		<comments>http://www.ks-edu.co.jp/blog/?p=399#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 30 Jan 2012 23:00:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[はやいもので、もう一月も終わろうとしている。年明けからの地震や、最近の地震速報を見ると、まだまだ不安定な状況は変わっていない。 年が明けてから、大学のキャリアセンターを回ることが増えた。さて、キャリアセンターとは？また、キャリア教育という定義で、現場では何が行われているのか。以前の教育開発出版での仕事との大きな違いをあげると、ケーエスコーポレイションの仕事は次のようなフィールドである。小学校低学年と大学・専門学校という教育機関のボトムとトップにフォーカスして対象に置くこと。これは、グループの構造からみて分かりやすい図柄だ。 まず、中・高・大の入試というフラッグがない。そして、教材の必須性がない。科目の概念がない。ないものづくしだ。だから、教材やシステムは様々な形態をとる。しかし、私たちの提示する商品は限定的だ。さて、どうする。というようなことを考えながら、大学のキャリアセンターを訪問する。 ここで、話を昔に戻す。自分にとってのキャリア教育。もちろん、私の学生時代にキャリア教育という言葉はなかった。私が体験したのは、就職課や学事課に提示されている求人票を見て応募するということだった。文学部で、それもフランス文学科なんてわけのわからないものは、企業の指定から外れるものが多かった。法学部や経済学部は、いろいろな企業からの求人情報があった。 あの当時に沿って考えると、キャリアセンターとは就職課の位置づけだろう。あの頃の私たちは、自分で情報を得て、自分で応募するしかなかったが、今は大学で教育プログラムを組むようになったと言うことだ。そして、私はSPIの存在を知り、併せてリメディアル教育や、エントリーシートの書き方、面接のスキルなどの領域を知ることになった。時代は変わったとしかいいようがない。 ある大学で面白い話を聞いた。大学受験予備校からの情報でもある。大学受験に熱心な学生ほど、自分のキャリアパス～どういう業界の仕事を、どういう職種でやっていきたい、という動機が明確だということだ。だから、資格の取得にも熱心だ、と。 しかし、キャリアセンターでは、社会への入り口までが仕事で、そのあとの長い時間、彼らの人生の７割くらいは、仕事によってキャリアを得ることになる。そこまでは、大学は面倒をみる筋合いではない。 そこで、入り口までの準備をサポートする。今では、多くの大学にキャリアサポートセンターが付設されているが、これも時代を表す現象だろう。 以前、書いた記憶があるが、私の学生時代のアルバイトは多岐にわたっていた。そして、日払いのバイト（主に肉体労働）と少しレンジの長いバイトを組み合わせて仕事をする。これは、今考えれば私にとってのキャリア教育と言えるかもしれない。20種類余のアルバイトをしたが、これが今のインターンシップと見なすことも可能だ。実際にある印刷会社から、うちに就職しないか、という誘いもあった。しかし、このアルバイトの経験を書き出したら、ブログ5回分くらいになるので、ここで止める。 就職した後に経験が役立ったのは、長期バイトだった市場調査の仕事と印刷会社の校正の仕事だろう。ビル清掃の会社や翻訳会社も長めに経験したが、その二つとも、学生たちで起業を行った。特に、翻訳会社は今でも付き合いのある友人たちで立ち上げた。これも、あの時代の話。 そして、何よりも印象に残るのは、現場の人たちの仕事に対するスタンスだった。活字を拾う人たち、地下鉄工事で驚くような腕を持った職人たち、分析資料をあっという間に作る人、プロというのはこういうものだ、と思った。そして、そのような人は自分の腕を自慢もしない。彼らにとって普通のことだからだ。余り腕のない人に限って、自慢をし、アルバイト学生をうまく使おうとする。そのような経験をした。 会社に入って考えた。プロと学生バイトを区分するのは、何か。おそらくミッション意識だろう。使命感を堅持すること。学生はただの通行人で、仕事と経済を結合させるだけの存在だ。使命感の主語、誰の命なのかは余り関係ない。自分の命になって初めて仕事が始まるので、上司の命であっても自分のやり方で仕事の到達点を目指す。 また、その人たちが教えてくれたのは、弛緩と集中の切り替えだった。へらへらしているかと思うと、急に眼の色が変わる。私が学生の頃に、そういったプロに出会えたのは幸運だったと思う。 私たちが大学でのキャリア教育に提案するコンテンツは、大きく分けると、「ことばの力」と「社会を見ていく眼」である。この二つは、仕事についてからも大きなウェイトを持つ必要なものだと思う。これも一朝一夕で身に着くものではない。以前書いた、子どもたちはいつから学ぶのか、というテーマにもつながる。 そして、おそらく、大学でのキャリア教育で必要な要素は、どんな仕事でも面白さを見つけろ、ということであり、仕事に対して謙虚に構えろ、そして、考えろ、ということだと思う。シンプルだ。 ということで、学ぶキャリアは子どもの頃から始まるという結論にたどり着いた。上記の「仕事」という言葉を「学び」に置き換えてもらうと分かりやすいだろう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>はやいもので、もう一月も終わろうとしている。年明けからの地震や、最近の地震速報を見ると、まだまだ不安定な状況は変わっていない。</p>
<p>年が明けてから、大学のキャリアセンターを回ることが増えた。さて、キャリアセンターとは？また、キャリア教育という定義で、現場では何が行われているのか。以前の教育開発出版での仕事との大きな違いをあげると、ケーエスコーポレイションの仕事は次のようなフィールドである。小学校低学年と大学・専門学校という教育機関のボトムとトップにフォーカスして対象に置くこと。これは、グループの構造からみて分かりやすい図柄だ。</p>
<p>まず、中・高・大の入試というフラッグがない。そして、教材の必須性がない。科目の概念がない。ないものづくしだ。だから、教材やシステムは様々な形態をとる。しかし、私たちの提示する商品は限定的だ。さて、どうする。というようなことを考えながら、大学のキャリアセンターを訪問する。</p>
<p>ここで、話を昔に戻す。自分にとってのキャリア教育。もちろん、私の学生時代にキャリア教育という言葉はなかった。私が体験したのは、就職課や学事課に提示されている求人票を見て応募するということだった。文学部で、それもフランス文学科なんてわけのわからないものは、企業の指定から外れるものが多かった。法学部や経済学部は、いろいろな企業からの求人情報があった。</p>
<p>あの当時に沿って考えると、キャリアセンターとは就職課の位置づけだろう。あの頃の私たちは、自分で情報を得て、自分で応募するしかなかったが、今は大学で教育プログラムを組むようになったと言うことだ。そして、私はSPIの存在を知り、併せてリメディアル教育や、エントリーシートの書き方、面接のスキルなどの領域を知ることになった。時代は変わったとしかいいようがない。</p>
<p>ある大学で面白い話を聞いた。大学受験予備校からの情報でもある。大学受験に熱心な学生ほど、自分のキャリアパス～どういう業界の仕事を、どういう職種でやっていきたい、という動機が明確だということだ。だから、資格の取得にも熱心だ、と。</p>
<p>しかし、キャリアセンターでは、社会への入り口までが仕事で、そのあとの長い時間、彼らの人生の７割くらいは、仕事によってキャリアを得ることになる。そこまでは、大学は面倒をみる筋合いではない。<br />
そこで、入り口までの準備をサポートする。今では、多くの大学にキャリアサポートセンターが付設されているが、これも時代を表す現象だろう。</p>
<p>以前、書いた記憶があるが、私の学生時代のアルバイトは多岐にわたっていた。そして、日払いのバイト（主に肉体労働）と少しレンジの長いバイトを組み合わせて仕事をする。これは、今考えれば私にとってのキャリア教育と言えるかもしれない。20種類余のアルバイトをしたが、これが今のインターンシップと見なすことも可能だ。実際にある印刷会社から、うちに就職しないか、という誘いもあった。しかし、このアルバイトの経験を書き出したら、ブログ5回分くらいになるので、ここで止める。</p>
<p>就職した後に経験が役立ったのは、長期バイトだった市場調査の仕事と印刷会社の校正の仕事だろう。ビル清掃の会社や翻訳会社も長めに経験したが、その二つとも、学生たちで起業を行った。特に、翻訳会社は今でも付き合いのある友人たちで立ち上げた。これも、あの時代の話。</p>
<p>そして、何よりも印象に残るのは、現場の人たちの仕事に対するスタンスだった。活字を拾う人たち、地下鉄工事で驚くような腕を持った職人たち、分析資料をあっという間に作る人、プロというのはこういうものだ、と思った。そして、そのような人は自分の腕を自慢もしない。彼らにとって普通のことだからだ。余り腕のない人に限って、自慢をし、アルバイト学生をうまく使おうとする。そのような経験をした。</p>
<p>会社に入って考えた。プロと学生バイトを区分するのは、何か。おそらくミッション意識だろう。使命感を堅持すること。学生はただの通行人で、仕事と経済を結合させるだけの存在だ。使命感の主語、誰の命なのかは余り関係ない。自分の命になって初めて仕事が始まるので、上司の命であっても自分のやり方で仕事の到達点を目指す。</p>
<p>また、その人たちが教えてくれたのは、弛緩と集中の切り替えだった。へらへらしているかと思うと、急に眼の色が変わる。私が学生の頃に、そういったプロに出会えたのは幸運だったと思う。</p>
<p>私たちが大学でのキャリア教育に提案するコンテンツは、大きく分けると、「ことばの力」と「社会を見ていく眼」である。この二つは、仕事についてからも大きなウェイトを持つ必要なものだと思う。これも一朝一夕で身に着くものではない。以前書いた、子どもたちはいつから学ぶのか、というテーマにもつながる。<br />
そして、おそらく、大学でのキャリア教育で必要な要素は、どんな仕事でも面白さを見つけろ、ということであり、仕事に対して謙虚に構えろ、そして、考えろ、ということだと思う。シンプルだ。</p>
<p>ということで、学ぶキャリアは子どもの頃から始まるという結論にたどり着いた。上記の「仕事」という言葉を「学び」に置き換えてもらうと分かりやすいだろう。</p>
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		<title>海路の日和　４９　子役の時間</title>
		<link>http://www.ks-edu.co.jp/blog/?p=396</link>
		<comments>http://www.ks-edu.co.jp/blog/?p=396#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 16 Jan 2012 10:29:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[遅まきながら、謹賀新年。年が明けました。 正月休みは、また映画のDVDを５本借りて、それを見て過ごし、近くの下北沢の神社に初詣をした。恒例行事である。妻と二人で、閑散とした町を歩く。いつもの休日の下北沢とは雰囲気が違う。 3日から4日にかけては、修善寺を旅した。もう、5回くらい修善寺には行っているし、昨年の秋にも、特約店旅行にも参加して訪れたところだ。古い旅館に泊って、温泉に浸かる。 家にいてテレビをつけると、年末用の撮りだめの番組が多く、その辺りはパスしてドキュメント系に眼が行く。例えば、新日鉄釜石と同志社大のラグビー決勝を、松尾と平尾をゲストに呼んでやっている。過去の映像を見ると、あの頃の興奮を思い出して面白い。私が最も興奮したのは、社会人リーグの決勝でサンヨーと神戸製鋼が戦った試合だ。最後の最後に、右を走るウィリアムスのトライが勝負を決めた。あの時のサンヨーの宮地監督の表情。勝利を得た後の、神戸製鋼の平尾の表情。今でも甦る気がする。1991年のことだ。私は、父の仕事の関係もあり、鉄の関係の社会人チームが好きだった。「鉄の男」、カッコいいじゃないか。ドロドロで汗臭い感じがするが。今のように、おしゃれでスマートな仕事がもてはやされる時代ではないが。まあ、仕事におしゃれもスマートもないのだが。 で、話は本題にいく。年末にテレビで、これも過去の物だが、BS放送で「北の国から」をやっていた。連続で見ることができた。30年ほど前のテレビドラマだ。私が30歳を過ぎた頃にやっていたものだが、見落としもあり、あるいは記憶が薄れているのか、新鮮なものとして見ることができた。 この年になってみて思うのだが、これは、富良野の自然の美しさを描きながらも、実際は悲惨なドラマだ。東京から父親の故郷に引っ越した子ども、純（吉岡秀隆）と蛍（中嶋朋子）は、東京に比較して圧倒的な不便さと自然の厳しさを体験する。そして父親の黒板五郎（田中邦衛）は妻に去られて失意の底にいる。人々の生活も貧困との戦いがあり、ある老人は、金のために苦楽を共にした馬を売り、「今頃は、肉になってる」と涙を流して呟き、酔っ払って橋から落ちて水死する。 自然のもつ厳しさや人間関係も含めて、実は苛酷な状況を描くドラマなのだ。貧しさゆえに夜逃げする家族もある。自然の生み出す美しい映像が、見ているものを、ほっとさせるが、ドラマとしたら悲惨なものを多く含んでいる。だから、喜びあえたり、笑いあえたりする場面が生きてくるのだと思う。 父親が、水を引く作業をしたり、電気がないために風力発電を組み立てたり、挙句の果てに仲間の力を借りて家まで建てる。彼は、生活のために、全てを一からやろうとしている。冷静にみると、これは「意地」だろう。東京の生活でもたらされた悲しみを意地になって克服しようとしている図式だ。 印象深いシーンがあって、しばらくして落ち着いた生活の頃に、息子の純は父親に言う。「水を引いたり、風車で電気を作ってたりしたお父さんは凄かったけど、今はなんで、そんなにだらしないの？」というようなことを言う。父親は怒って言い返す。「父さんだって、毎日働きづめで疲れているんだぞ」と。父親は工場に勤めて疲れているということを言いたいのだ。しかし、その後に父親は息子に「あの時は、胸にグサっときた」と呟く。 逆に父親が息子を責める場面もある。お前は卑怯者だ、と。このような親子関係を描くドラマは、今あるのだろうか。これは、親子が共に成長していく過程を描いていると思う。ラグビーのルールのように、親は子どもに向けてボールを後ろに投げる。 そして、このドラマシリーズでは、長いレンジで子どもたちの成長と苦悩が描かれる。この二人の子役は大人になるまでの成長を演じ続けることになる。 今の子役たちの活躍を見ていて、この二人の子役と比較してしまう。何か違うなあ、と思う。今の子どもたちは、表情も豊かに、器用に役柄を演じ、コマーシャルにも出て、笑顔を振りまく。歌って見せる、踊って見せる。周りの大人もニコニコ顔だが、彼らは子どもと動物に焦点を合わせると、視聴率が跳ね上げることを知っている。 この子どもたちの時間はどこにつながるのだろうか。余計な心配といわれるだろうが、友だちと遊ぶ時間や、普通の大人たちとの交流の時間はあるのだろうか。自分が見えなくなりはしないか。 もちろん、彼らは仕事で業界の大人と接し、いろいろなルールも学ぶ。挨拶などの対応も含めて、成長はしていくだろう。しかし、「北の国から」のように、彼らの成長過程を追い続けるドラマは、今のテレビには求められないだろう。なんにしても、継続する志を保つことは難しい。 純と蛍が滔々としゃべるシーンは少なく、純は心の中を呟きで時々表現する。蛍も寡黙な少女だ。それよりも体を動かす演技が目立つ。父の作業を手伝い、長い道を歩き、太陽の光を浴びながら走る。走るシーンは多く撮影される。蛍の走り方は記憶に残るほどだ。電車に乗っている母親を追いかけるときの走り方。そして、親や周囲の人たちとのコミュニケーションから様々なものを学んでいく。感じることで学び、ことばによって学び、自然に向き合うことで学んでいく。この二人には、子役である前に、自分たちの経験を楽しんでいる子ども、という印象がある。 その走っている先に、自分たちの成長があり、予測のつかない人生が待ち構えている。彼らの実際の人生もそうだ。そして、父親とその仲間たちは、自然に年老いていく。五郎の親友は、老年になってチイ散歩を始めることになる。 ということで、今年最初のブログはテレビドラマの感想コラムのようなものになった。 では、今年も、よろしく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>遅まきながら、謹賀新年。年が明けました。<br />
正月休みは、また映画のDVDを５本借りて、それを見て過ごし、近くの下北沢の神社に初詣をした。恒例行事である。妻と二人で、閑散とした町を歩く。いつもの休日の下北沢とは雰囲気が違う。<br />
3日から4日にかけては、修善寺を旅した。もう、5回くらい修善寺には行っているし、昨年の秋にも、特約店旅行にも参加して訪れたところだ。古い旅館に泊って、温泉に浸かる。</p>
<p>家にいてテレビをつけると、年末用の撮りだめの番組が多く、その辺りはパスしてドキュメント系に眼が行く。例えば、新日鉄釜石と同志社大のラグビー決勝を、松尾と平尾をゲストに呼んでやっている。過去の映像を見ると、あの頃の興奮を思い出して面白い。私が最も興奮したのは、社会人リーグの決勝でサンヨーと神戸製鋼が戦った試合だ。最後の最後に、右を走るウィリアムスのトライが勝負を決めた。あの時のサンヨーの宮地監督の表情。勝利を得た後の、神戸製鋼の平尾の表情。今でも甦る気がする。1991年のことだ。私は、父の仕事の関係もあり、鉄の関係の社会人チームが好きだった。「鉄の男」、カッコいいじゃないか。ドロドロで汗臭い感じがするが。今のように、おしゃれでスマートな仕事がもてはやされる時代ではないが。まあ、仕事におしゃれもスマートもないのだが。</p>
<p>で、話は本題にいく。年末にテレビで、これも過去の物だが、BS放送で「北の国から」をやっていた。連続で見ることができた。30年ほど前のテレビドラマだ。私が30歳を過ぎた頃にやっていたものだが、見落としもあり、あるいは記憶が薄れているのか、新鮮なものとして見ることができた。</p>
<p>この年になってみて思うのだが、これは、富良野の自然の美しさを描きながらも、実際は悲惨なドラマだ。東京から父親の故郷に引っ越した子ども、純（吉岡秀隆）と蛍（中嶋朋子）は、東京に比較して圧倒的な不便さと自然の厳しさを体験する。そして父親の黒板五郎（田中邦衛）は妻に去られて失意の底にいる。人々の生活も貧困との戦いがあり、ある老人は、金のために苦楽を共にした馬を売り、「今頃は、肉になってる」と涙を流して呟き、酔っ払って橋から落ちて水死する。</p>
<p>自然のもつ厳しさや人間関係も含めて、実は苛酷な状況を描くドラマなのだ。貧しさゆえに夜逃げする家族もある。自然の生み出す美しい映像が、見ているものを、ほっとさせるが、ドラマとしたら悲惨なものを多く含んでいる。だから、喜びあえたり、笑いあえたりする場面が生きてくるのだと思う。</p>
<p>父親が、水を引く作業をしたり、電気がないために風力発電を組み立てたり、挙句の果てに仲間の力を借りて家まで建てる。彼は、生活のために、全てを一からやろうとしている。冷静にみると、これは「意地」だろう。東京の生活でもたらされた悲しみを意地になって克服しようとしている図式だ。</p>
<p>印象深いシーンがあって、しばらくして落ち着いた生活の頃に、息子の純は父親に言う。「水を引いたり、風車で電気を作ってたりしたお父さんは凄かったけど、今はなんで、そんなにだらしないの？」というようなことを言う。父親は怒って言い返す。「父さんだって、毎日働きづめで疲れているんだぞ」と。父親は工場に勤めて疲れているということを言いたいのだ。しかし、その後に父親は息子に「あの時は、胸にグサっときた」と呟く。</p>
<p>逆に父親が息子を責める場面もある。お前は卑怯者だ、と。このような親子関係を描くドラマは、今あるのだろうか。これは、親子が共に成長していく過程を描いていると思う。ラグビーのルールのように、親は子どもに向けてボールを後ろに投げる。<br />
そして、このドラマシリーズでは、長いレンジで子どもたちの成長と苦悩が描かれる。この二人の子役は大人になるまでの成長を演じ続けることになる。</p>
<p>今の子役たちの活躍を見ていて、この二人の子役と比較してしまう。何か違うなあ、と思う。今の子どもたちは、表情も豊かに、器用に役柄を演じ、コマーシャルにも出て、笑顔を振りまく。歌って見せる、踊って見せる。周りの大人もニコニコ顔だが、彼らは子どもと動物に焦点を合わせると、視聴率が跳ね上げることを知っている。</p>
<p>この子どもたちの時間はどこにつながるのだろうか。余計な心配といわれるだろうが、友だちと遊ぶ時間や、普通の大人たちとの交流の時間はあるのだろうか。自分が見えなくなりはしないか。<br />
もちろん、彼らは仕事で業界の大人と接し、いろいろなルールも学ぶ。挨拶などの対応も含めて、成長はしていくだろう。しかし、「北の国から」のように、彼らの成長過程を追い続けるドラマは、今のテレビには求められないだろう。なんにしても、継続する志を保つことは難しい。</p>
<p>純と蛍が滔々としゃべるシーンは少なく、純は心の中を呟きで時々表現する。蛍も寡黙な少女だ。それよりも体を動かす演技が目立つ。父の作業を手伝い、長い道を歩き、太陽の光を浴びながら走る。走るシーンは多く撮影される。蛍の走り方は記憶に残るほどだ。電車に乗っている母親を追いかけるときの走り方。そして、親や周囲の人たちとのコミュニケーションから様々なものを学んでいく。感じることで学び、ことばによって学び、自然に向き合うことで学んでいく。この二人には、子役である前に、自分たちの経験を楽しんでいる子ども、という印象がある。</p>
<p>その走っている先に、自分たちの成長があり、予測のつかない人生が待ち構えている。彼らの実際の人生もそうだ。そして、父親とその仲間たちは、自然に年老いていく。五郎の親友は、老年になってチイ散歩を始めることになる。</p>
<p>ということで、今年最初のブログはテレビドラマの感想コラムのようなものになった。<br />
では、今年も、よろしく。</p>
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		<title>海路の日和　４８　土竜から竜へと舞い上がる</title>
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		<pubDate>Tue, 27 Dec 2011 07:04:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[もう今年も暮れようとしている。今年の最後のブログとなる。 しかし、もう48回目か。月に２本のペースなので、24か月が過ぎた訳だ。大体一つにつき2000字余りなので、400字詰め原稿用紙にすると250枚前後の量になる。 今年の締めのタイトル。土竜はモグラのことだ。そして、来年は辰年。しかし、なぜモグラを土竜と書くのか。イメージとして竜の姿とは似ても似つかぬ容姿のモグラだ。 なぜ、モグラをイメージしたかと言うと、この一ヶ月近くの通勤の環境である。2005年に㈱CAMPとして動き始めた会社だが、当初は日本橋にあった。私は、渋谷から地下鉄に乗っていって三越前で降りる。それから大きな通りを歩いて事務所に辿り着くという通勤ルートだった。 今回、上北沢から東新宿に通勤エリアが変わり、一番感じたのは地下鉄の駅に向かうルートの長さだった。地下5階のレベルまで下って副都心線の渋谷駅に着く。もちろん、東新宿では、地下5階から地上まで登っていくことになる。地上までに長い距離を進んでいく。そう、まるでモグラのように。地下の長い通路。老人や体の不自由な人たちは大変だろうな、と思う。まして、停電でもしたら。 話は変わるが、大阪市の市長に当選した人が都庁を訪れて、「いやあ、やっぱり都庁から見下ろすと、東京は大都会です。それに比べて、大阪なんかはほんとに田舎です。これから発展して、日本にとって東と西のエンジンになるように頑張ります」というようなコメントを残した。 私は、テレビのニュースでその映像を見たが、思わず、頑張らなくていいから、と呟いた。 都会だろうが田舎だろうが、そこで生活する人にとっては「わが町」であり、愛着心を持つのは、その町の風景であったり、そこで生活する人々であったりする。当たり前の話だ。ビルが林立し、地下をとことん掘り下げるような街でないとダメだと人は考えるのだろうか。 上記の市長の言葉が表わしているのは、経済至上主義の考え方である。さっきの言葉を翻訳してみようか。「いやあ、御社の最上階から見るとすごい風景ですね。やはり資本の強大な御社の発展から見たら、うちの会社なんか田舎大名みたいなもんですわ。これから御社を目指して、リストラなんかしてでも、大きい会社になって肩を並べるようになりたい、と思いますよって、よろしゅうお願いします」ということ。ほら、経済重視の意訳をしても違和感はないでしょ。そこに媚態がまぶされているとしても。 しかし、地下に何層もの交通網を巡らせて、日本で一番高い塔を建造することが、素晴らしいことかどうか。オリンピックを誘致し、経済効果を算定することが、東京にとって希望と成りうるのか。疑問符が私の頭に浮かぶ。 さて、土竜にもどろうか。通勤の際に地下鉄からモグラを連想したわけだが、今の仕事もトンネルを掘り進むような仕事だな、という印象だ。掘ってルートを探っていくと何かに突き当たる。そんな仕事のような気がする。整備された交通網とは違う。 最近も学童保育という領域に鼻を突っ込んだ。今までの仕事で、保育所を見た経験はないが、やがては現場を見ることになる。おそらく、文科省と厚労省の大きな短冊が政治レベルでの橋渡しを行うには難関が横たわっている。でも、幼保一体のアイデアや、学童を預かるという機能は、公的及び私的な機関の領域において課題となっているのも事実だ。 公立学校で夜の補習をしているのも学童保育の流れでしょう、という考え方もある。レアケースではあっても。しかし、この流れは下に向かっては行かない。なぜなら、中学で補習するのは前提として高校受験を措定できるからだ。公立校の小学生にはそれはない。 つくづく、この国の施政においては「受験に向けての学力」が錦の御旗なのだなあ、と思う。だから、先の市長も、全国統一学力テストでの大阪府の成績の悪さを慨嘆し、自分の出身高校の大学合格実績を見て、その不調に苛立っている。しかし、その拘りは全て結果であり、その結果もプロセスの一地点であるのは明白だ。学ぶということは、常にフェーズを上げていくことだからだ。 だから、年齢に関係なく学ぶ人は学ぶ。その力が学力なのだと思う。痛い経験や失敗も含めて、人間は学んでいく。 ということで、ルートを探ってトンネルを掘っていくのが、今の仕事だと思っている。喩えを拡げると、海図のない海であり、どこに流れ着くかわからないアマゾンの河下りだ。だから、面白い。 でも、モグラと違って大事なのは、視力だ。しっかりと物を見る力。少女漫画のように眼の回りに星が跳ねるような感じ。想像したら、そんなモグラは笑ってしまうが。それと、嗅覚も大切。 新年を迎える前に、初夢のようなものを書いて、この稿を終わる。モグラが土を払って、空に舞い上がって竜になるような夢。爽快だろうな。モグモグと鼻を押し付けていたところから、空に伸びて金色の爪を光らせる。竜の回りには稲妻が走る。なかなか縁起がよろしい。そして、その年の干支は辰、ということで。 今年は本当に激動の年だったと思う。2012年はどのような年になるのかな。では、来年もよろしく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>もう今年も暮れようとしている。今年の最後のブログとなる。<br />
しかし、もう48回目か。月に２本のペースなので、24か月が過ぎた訳だ。大体一つにつき2000字余りなので、400字詰め原稿用紙にすると250枚前後の量になる。</p>
<p>今年の締めのタイトル。土竜はモグラのことだ。そして、来年は辰年。しかし、なぜモグラを土竜と書くのか。イメージとして竜の姿とは似ても似つかぬ容姿のモグラだ。<br />
なぜ、モグラをイメージしたかと言うと、この一ヶ月近くの通勤の環境である。2005年に㈱CAMPとして動き始めた会社だが、当初は日本橋にあった。私は、渋谷から地下鉄に乗っていって三越前で降りる。それから大きな通りを歩いて事務所に辿り着くという通勤ルートだった。</p>
<p>今回、上北沢から東新宿に通勤エリアが変わり、一番感じたのは地下鉄の駅に向かうルートの長さだった。地下5階のレベルまで下って副都心線の渋谷駅に着く。もちろん、東新宿では、地下5階から地上まで登っていくことになる。地上までに長い距離を進んでいく。そう、まるでモグラのように。地下の長い通路。老人や体の不自由な人たちは大変だろうな、と思う。まして、停電でもしたら。</p>
<p>話は変わるが、大阪市の市長に当選した人が都庁を訪れて、「いやあ、やっぱり都庁から見下ろすと、東京は大都会です。それに比べて、大阪なんかはほんとに田舎です。これから発展して、日本にとって東と西のエンジンになるように頑張ります」というようなコメントを残した。<br />
私は、テレビのニュースでその映像を見たが、思わず、頑張らなくていいから、と呟いた。</p>
<p>都会だろうが田舎だろうが、そこで生活する人にとっては「わが町」であり、愛着心を持つのは、その町の風景であったり、そこで生活する人々であったりする。当たり前の話だ。ビルが林立し、地下をとことん掘り下げるような街でないとダメだと人は考えるのだろうか。</p>
<p>上記の市長の言葉が表わしているのは、経済至上主義の考え方である。さっきの言葉を翻訳してみようか。「いやあ、御社の最上階から見るとすごい風景ですね。やはり資本の強大な御社の発展から見たら、うちの会社なんか田舎大名みたいなもんですわ。これから御社を目指して、リストラなんかしてでも、大きい会社になって肩を並べるようになりたい、と思いますよって、よろしゅうお願いします」ということ。ほら、経済重視の意訳をしても違和感はないでしょ。そこに媚態がまぶされているとしても。</p>
<p>しかし、地下に何層もの交通網を巡らせて、日本で一番高い塔を建造することが、素晴らしいことかどうか。オリンピックを誘致し、経済効果を算定することが、東京にとって希望と成りうるのか。疑問符が私の頭に浮かぶ。</p>
<p>さて、土竜にもどろうか。通勤の際に地下鉄からモグラを連想したわけだが、今の仕事もトンネルを掘り進むような仕事だな、という印象だ。掘ってルートを探っていくと何かに突き当たる。そんな仕事のような気がする。整備された交通網とは違う。</p>
<p>最近も学童保育という領域に鼻を突っ込んだ。今までの仕事で、保育所を見た経験はないが、やがては現場を見ることになる。おそらく、文科省と厚労省の大きな短冊が政治レベルでの橋渡しを行うには難関が横たわっている。でも、幼保一体のアイデアや、学童を預かるという機能は、公的及び私的な機関の領域において課題となっているのも事実だ。</p>
<p>公立学校で夜の補習をしているのも学童保育の流れでしょう、という考え方もある。レアケースではあっても。しかし、この流れは下に向かっては行かない。なぜなら、中学で補習するのは前提として高校受験を措定できるからだ。公立校の小学生にはそれはない。</p>
<p>つくづく、この国の施政においては「受験に向けての学力」が錦の御旗なのだなあ、と思う。だから、先の市長も、全国統一学力テストでの大阪府の成績の悪さを慨嘆し、自分の出身高校の大学合格実績を見て、その不調に苛立っている。しかし、その拘りは全て結果であり、その結果もプロセスの一地点であるのは明白だ。学ぶということは、常にフェーズを上げていくことだからだ。<br />
だから、年齢に関係なく学ぶ人は学ぶ。その力が学力なのだと思う。痛い経験や失敗も含めて、人間は学んでいく。</p>
<p>ということで、ルートを探ってトンネルを掘っていくのが、今の仕事だと思っている。喩えを拡げると、海図のない海であり、どこに流れ着くかわからないアマゾンの河下りだ。だから、面白い。<br />
でも、モグラと違って大事なのは、視力だ。しっかりと物を見る力。少女漫画のように眼の回りに星が跳ねるような感じ。想像したら、そんなモグラは笑ってしまうが。それと、嗅覚も大切。</p>
<p>新年を迎える前に、初夢のようなものを書いて、この稿を終わる。モグラが土を払って、空に舞い上がって竜になるような夢。爽快だろうな。モグモグと鼻を押し付けていたところから、空に伸びて金色の爪を光らせる。竜の回りには稲妻が走る。なかなか縁起がよろしい。そして、その年の干支は辰、ということで。</p>
<p>今年は本当に激動の年だったと思う。2012年はどのような年になるのかな。では、来年もよろしく。</p>
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		<title>海路の日和　４７　紅葉の京都を歩いた</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Dec 2011 07:52:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[「海路の日和」]]></category>

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		<description><![CDATA[１２月の初めから、上北沢にある本社を離れて、当社の拠点になる東新宿（歌舞伎町）に移った。今までとは違う風景の中での仕事となる。 着任までの４日間をかけて、年明けからの目論見だった京都紅葉ツアーをおこなった。以前のブログで奈良の旅行を書いたが、今回は京都。何か、また日記風だなあ。 １１月30日の昼過ぎに、本社の方々に挨拶をし、手を振ってタクシーに乗り込んだ。36年にわたる仕事だったが、思い出は次々と浮かび上がる。もし誰かに、今までの仕事の中で一番面白かった時期はいつですか、と聞かれたら、迷わずに東日本営業部長時代というだろう。市場を分割し、東日本エリアの統括責任者の頃だ。比率的には東２：西１というウェイトだった。 おそらく、面白さを感じた理由は、大きな数値責任を持ったことと、自分の仕事の流儀がどこまで試されるか、という意識だったと思う。自分の流儀なので、マニュアルはいらない。合意形成をしてもつまらないものはつまらないので、まず、自分のアイデアから仕事を進めた。 これが、私の「仕事の歩き方」になった。 さてと、京都の話。これは、予想が当たって、ちょうど紅葉の見頃の時期となった。暖冬の影響かな。いつもなら、１１月中旬ということ。 どのスポットに行けばいいのか、という計画は妻が立てる。まず、嵐山に入り、嵯峨野周辺を歩く。嵐山公園から川沿いに歩いて、宝厳院～天竜寺などを歩いて宿に。平日だが、渡月橋周辺は混み合っている。二日目には、落柿舎～常寂光院～祇王寺～宝筐院～大覚寺と回った。特に、宝筐院の紅葉に圧倒された。参門を外から見ると、火事でも起きているように、紅葉が溢れている。まさに、燃える秋。脚に疲れが出てきているのは、寺から寺へと相当な距離を歩いているからだ。 奈良の時もそうだったが、風景を追い求めると、いやでも歩き続ける。奈良の旅の際に、予想したように、同じ古都でも京都は奈良ほどの「のほほん感」はない。店が賑わい、多くの人が群れをつくっている。そして、ため息をつくようにして自然に向かい合うことになる。 今年の春、日本は大きな自然災害を経験した。３月11日だ。しかし、しばらくして桜の花が咲き誇り、またしばらくして、うだるような暑い夏がやってきた。そして、秋には、自然は人々の営みに頓着せず変化して、このように感嘆するような美しさも投げかけてくる。力強い。 だから、自然と人間と並べた時に、「自然にやさしく」という人間の言葉が、高慢な匂いを漂わせる虚しいものになって響く。 夜は有名どころの清水寺のライトアップを見に行った。何か所かの寺でライトアップをしていて、清水の舞台から光を当てられた紅葉を見ようという趣向である。 いやあ、人ごみには参ったなあ。ラッシュの電車の混雑と変わらない。カメラを持った人々が犇きあっている状態。途中でルートを変更して速足で退散。 翌日は、毘沙門堂と東福寺を回った。毘沙門堂は、今年のJR東海の「そうだ京都、いこう」のポスターの写真になっているところだ。このポスターを見ると、読点が気になるが、あえてこのリズムにしているのだろう。参門の階段に舞い落ちた紅葉が敷き詰められている写真だ。 ここで、また面白い青年僧に出会った。奈良と同じように。20人くらいの客を前にして、「ようこそ、いらっしゃいました」と話し出す。毘沙門堂の歴史を語るのは、奈良の薬師寺と同じだが、毘沙門天がトラ年だと聞いて、興味がわく。神仏に干支があるのかい。そして、彼は言葉を続け、「徳川家康もトラ年です」と言う。ほお、そうか、自分と同じトラ年か。だから、家康も毘沙門天を大事にした、という話になる。 「ＪＲのポスターになったせいで、こんなに多くのお客さんがいらっしゃいますが、この時期を外すと、いつもは平日に5人とか10人くらいしか参拝者はいません。まあ、これが普通ですかね。ほんとに貧乏寺です。この時期にお金はたくさん入りますが、寺の修理に使われたりして、私たちの給料は上がりません」。聞いている客は笑う。青白い細面のお坊さんは二コリともしない。この寺に入って2年目という若い人である。 奈良の時と同様に、若い僧侶の話が面白かった。おそらく、上司から、案内はおまえがやれと言われて、寺の説明をしているのだろうが、何かうちでやっている情報セミナーのようだ。自分のことばで語ること、だから、給料が上がらない、と言う。古参の僧から、僧侶の身でありながら、と文句を言われるかも知れない。こちらの方は、頑張れとエールを送りたい気持ちだ。 　 ということで、京都の旅を終えて、東新宿の拠点に着任した。天候にも恵まれて、燃える秋を楽しめた。 最後に、オマケの写真。この写真は母方の曾祖母が小学生の私にくれた二宮金次郎像だ。ちょうど、本社を離れる前に背中の荷物がはずれて落ちた。これも流れだな、と思った次第である。でも、だらけてるんじゃないよ、これからの地図を読みこんでいるわけで。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>１２月の初めから、上北沢にある本社を離れて、当社の拠点になる東新宿（歌舞伎町）に移った。今までとは違う風景の中での仕事となる。<br />
着任までの４日間をかけて、年明けからの目論見だった京都紅葉ツアーをおこなった。以前のブログで奈良の旅行を書いたが、今回は京都。何か、また日記風だなあ。</p>
<p>１１月30日の昼過ぎに、本社の方々に挨拶をし、手を振ってタクシーに乗り込んだ。36年にわたる仕事だったが、思い出は次々と浮かび上がる。もし誰かに、今までの仕事の中で一番面白かった時期はいつですか、と聞かれたら、迷わずに東日本営業部長時代というだろう。市場を分割し、東日本エリアの統括責任者の頃だ。比率的には東２：西１というウェイトだった。</p>
<p>おそらく、面白さを感じた理由は、大きな数値責任を持ったことと、自分の仕事の流儀がどこまで試されるか、という意識だったと思う。自分の流儀なので、マニュアルはいらない。合意形成をしてもつまらないものはつまらないので、まず、自分のアイデアから仕事を進めた。<br />
これが、私の「仕事の歩き方」になった。</p>
<p>さてと、京都の話。これは、予想が当たって、ちょうど紅葉の見頃の時期となった。暖冬の影響かな。いつもなら、１１月中旬ということ。<br />
どのスポットに行けばいいのか、という計画は妻が立てる。まず、嵐山に入り、嵯峨野周辺を歩く。嵐山公園から川沿いに歩いて、宝厳院～天竜寺などを歩いて宿に。平日だが、渡月橋周辺は混み合っている。二日目には、落柿舎～常寂光院～祇王寺～宝筐院～大覚寺と回った。特に、宝筐院の紅葉に圧倒された。参門を外から見ると、火事でも起きているように、紅葉が溢れている。まさに、燃える秋。脚に疲れが出てきているのは、寺から寺へと相当な距離を歩いているからだ。</p>
<p> <a target="_blank" href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC020731_l.jpg"><img src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC020731.jpg" width="400" height="300" class="aligncenter size-full wp-image-384" /></a></p>
<p>奈良の時もそうだったが、風景を追い求めると、いやでも歩き続ける。奈良の旅の際に、予想したように、同じ古都でも京都は奈良ほどの「のほほん感」はない。店が賑わい、多くの人が群れをつくっている。そして、ため息をつくようにして自然に向かい合うことになる。</p>
<p>今年の春、日本は大きな自然災害を経験した。３月11日だ。しかし、しばらくして桜の花が咲き誇り、またしばらくして、うだるような暑い夏がやってきた。そして、秋には、自然は人々の営みに頓着せず変化して、このように感嘆するような美しさも投げかけてくる。力強い。</p>
<p>だから、自然と人間と並べた時に、「自然にやさしく」という人間の言葉が、高慢な匂いを漂わせる虚しいものになって響く。</p>
<p>夜は有名どころの清水寺のライトアップを見に行った。何か所かの寺でライトアップをしていて、清水の舞台から光を当てられた紅葉を見ようという趣向である。<br />
いやあ、人ごみには参ったなあ。ラッシュの電車の混雑と変わらない。カメラを持った人々が犇きあっている状態。途中でルートを変更して速足で退散。</p>
<p> <a target="_blank" href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC030994_l.jpg"><img src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC030994.jpg" width="400" height="300" class="aligncenter size-full wp-image-387" /></a></p>
<p>翌日は、毘沙門堂と東福寺を回った。毘沙門堂は、今年のJR東海の「そうだ京都、いこう」のポスターの写真になっているところだ。このポスターを見ると、読点が気になるが、あえてこのリズムにしているのだろう。参門の階段に舞い落ちた紅葉が敷き詰められている写真だ。</p>
<p> <a target="_blank" href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC030962_l.jpg"><img src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC030962.jpg" width="400" height="300" class="aligncenter size-full wp-image-388" /></a></p>
<p>ここで、また面白い青年僧に出会った。奈良と同じように。20人くらいの客を前にして、「ようこそ、いらっしゃいました」と話し出す。毘沙門堂の歴史を語るのは、奈良の薬師寺と同じだが、毘沙門天がトラ年だと聞いて、興味がわく。神仏に干支があるのかい。そして、彼は言葉を続け、「徳川家康もトラ年です」と言う。ほお、そうか、自分と同じトラ年か。だから、家康も毘沙門天を大事にした、という話になる。</p>
<p>「ＪＲのポスターになったせいで、こんなに多くのお客さんがいらっしゃいますが、この時期を外すと、いつもは平日に5人とか10人くらいしか参拝者はいません。まあ、これが普通ですかね。ほんとに貧乏寺です。この時期にお金はたくさん入りますが、寺の修理に使われたりして、私たちの給料は上がりません」。聞いている客は笑う。青白い細面のお坊さんは二コリともしない。この寺に入って2年目という若い人である。</p>
<p>奈良の時と同様に、若い僧侶の話が面白かった。おそらく、上司から、案内はおまえがやれと言われて、寺の説明をしているのだろうが、何かうちでやっている情報セミナーのようだ。自分のことばで語ること、だから、給料が上がらない、と言う。古参の僧から、僧侶の身でありながら、と文句を言われるかも知れない。こちらの方は、頑張れとエールを送りたい気持ちだ。</p>
<p> <a target="_blank" href="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC030943_l.jpg"><img src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC030943.jpg" width="400" height="300" class="aligncenter size-full wp-image-389" /></a><br />
　 </p>
<p><img src="http://www.ks-edu.co.jp/blog/wp-content/uploads/2011/12/PC101164.jpg"  width="170" height="128" class="alignright size-full wp-image-390" />ということで、京都の旅を終えて、東新宿の拠点に着任した。天候にも恵まれて、燃える秋を楽しめた。<br />
最後に、オマケの写真。この写真は母方の曾祖母が小学生の私にくれた二宮金次郎像だ。ちょうど、本社を離れる前に背中の荷物がはずれて落ちた。これも流れだな、と思った次第である。でも、だらけてるんじゃないよ、これからの地図を読みこんでいるわけで。</p>
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